治安
Die innere Sicherheit / The State I Am In  Die innere Sicherheit
(2000) on IMDb


2000年/ドイツ/カラー/106分/ヴィスタ/ドルビー
line
(初出:)

 

 

繰り返される歴史を断ち切り
自然のなかで再生を果たす

 

[ストーリー] 15歳の少女ジャンヌは、これまでずっと人目を避けて生きることを余儀なくされてきた。彼女の両親のクララとハンスは元過激派で、今も逃亡中の身だったからだ。ポルトガルに潜伏していた一家は、ヨーロッパと永久に別れを告げて、ブラジルに渡る計画を立てていたが、罠にはめられその資金を奪われてしまう。

 ハンスとクララはジャンヌを連れてドイツに戻り、昔の仲間に接触して資金を調達しようとする。だが、すでに社会復帰している彼らは、関わり合いになることを避ける。ハンスとクララが苦境に立たされる一方で、両親のかつての仲間の生活を垣間見たジャンヌは、普通の生活を望むようになるが――。

 クリスティアン・ペッツォルト監督のデビュー作『治安』(00)は、その8年後に作られたウリ・エデル監督の『バーダー・マインホフ 理想の果てに』(08)と比較してみると、そのアプローチがより明確になる。どちらもバーダー・マインホフ・グループ=ドイツ赤軍(RAF)を題材にした作品だが、作り手の世代の違いがアプローチに表れている。

 『バーダー・マインホフ』の場合は、原作・監修顧問のシュテファン・アウストが46年生まれ、製作・脚本のベルント・アイヒンガーが49年生まれ、監督・脚本のウリ・エデルが47年生まれで、映画にはそんな戦後世代の意識が集約されている。

 では、ドイツの戦後世代とは具体的にどのような世代なのか。『バーダー・マインホフ』のレビューとダブるが、ここでも参考になるテキストを引用しておきたい。まず、『西ドイツ「過激派」通信』のなかで、ヘルベルト・ヴォルムは以下のように書いている。「つぎのことだけは確かである。つまり、戦後世代の意識の発展にとって、国民社会主義[ナチズム]およびファシズムとの対決は、もっとも重要な構成要素のひとつだった。左翼および新左翼については、とくにこれが言える。かれらが政治的な正当性をもった最大の根拠は、とりわけこの点にあった」


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   クリスティアン・ペッツォルト
Christian Petzold
脚本 ハルーン・ファロッキ
Harun Farocki
撮影 ハンス・フロム
Hans Fromm
編集 ベッティナ・ベーラー
Bettina Bohler
音楽 シュテファン・ヴィル
Stefan Will
 
◆キャスト◆
 
ジャンヌ   ユーリア・フンマー
Julia Hummer
ハンス リッチー・ミュラー
Richy Muller
クララ バルバラ・アウアー
Barbara Auer
ハインリッヒ ビルゲ・ビングル
Bilge Bingul
-
(配給:)
 

 さらに、戦後世代のテロリストが登場してくるベルンハルト・シュリンクのミステリ『ゼルプの欺瞞』の解説では、ドイツ・ミステリの研究家・福本義憲が、戦後世代=68年世代について以下のように書いている。「大学紛争とベトナム戦争と世界革命、そして政治的スローガンの時代。だが、それだけではない。とりわけドイツでは、68年世代はナチの第一世代を糾弾した。沈黙する父親に「おまえはあのとき何をしたのか」と問い詰めた世代だ。親と子の断絶はもはや埋めがたかった。だが、イデオロギーの対立が親に対する糾問をイデオロギー論争へと空転させていく。ファシズム論と全体主義の狭間で親たちの行動を解釈し、それを消化しきれぬままにある者はより過激な闘争へと走り、ある者は割り切れぬ思いを噛みしめつつ大学に戻った」

 『バーダー・マインホフ』では、戦後世代である作り手たちが、そうした過去を踏まえ、バーダー・マインホフ・グループの軌跡を検証している。

 これに対して、『治安』のクリスティアン・ペッツォルトは60年生まれで、戦後世代よりも若い世代に属する。そんなペッツォルトは、15歳の少女ジャンヌの視点を通して、戦後世代のテロリストだった両親の姿を浮き彫りにする。

 ハンスとクララは、ジャンヌを監視し、支配し、自由を奪う。彼らは逃亡生活のなかで、自分たちが糾弾してきた者たちと同じ存在になっている。共通点はそれだけではない。彼らは、かつてナチスの戦犯が南米に逃れたように、ブラジルに逃亡しようとしている。また、彼らの親の世代が過去に対して口を閉ざしたように、ジャンヌが尋ねても過去を語ろうとはしない。

 だから、歴史や過去と切り離され、閉ざされた世界を生きるジャンヌには、自己のアイデンティティを確立することもできない。

 この映画でそんな閉塞感を象徴するのが車だ。この家族はとりあえず寝泊りできる部屋を確保しても決して安心できない。かろうじて安心できる居場所があるとすれば、それは車だ。だが、車のなかに見えるのは、支配と服従の縮図であり、ジャンヌにとって車は檻に等しい。

 ペッツォルト監督が車を強く意識していることは、一家が移動中に起こるエピソードに表れている。彼らが十字路で信号待ちをしていると、示し合わせたように前方、左右、後方から似たような車が現れ、にらみ合うような緊迫した空気が漂う。ハンスはそれに耐えられなくなり、車を降りて両手を挙げ、クララとジャンヌは車内で伏せる。だが、彼らが覚悟したような事態には至らない。

 このエピソードはラストの伏線になっているともいえる。一家にとって最後の居場所である車を放棄すること、あるいは車が失われることこそが、ジャンヌにとって檻からの解放を意味するからだ。そして、これまで透明なガラスによって外部と隔てられていた彼女は、自然のなかで再生を果たすことになる。

《参照/引用文献》
『西ドイツ「過激派」通信』●
(田畑書店、1980年)
『ゼルプの欺瞞』ベルンハルト・シュリンク●
平野卿子訳(小学館、2002年)

(upload:2015/01/17)
 
 
《関連リンク》
クリスティアン・ペッツォルト 『あの日のように抱きしめて』 レビュー ■
クリスティアン・ペッツォルト 『東ベルリンから来た女』 レビュー ■
クリスティアン・ペッツォルト 『ヴォルフスブルク(原題)』 レビュー ■
グレゴー・シュニッツラー 『レボリューション6』 レビュー ■
ヴォルフガング・ベッカー 『グッバイ、レーニン』 レビュー ■
ハンス・ワインガルトナー 『ベルリン、僕らの革命』 レビュー ■
ウリ・エデル 『バーダー・マインホフ 理想の果てに』 レビュー ■
スティーヴン・ダルドリー 『愛を読むひと』 レビュー ■

 
 
 
amazon.comへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp