映画『ショート・カッツ』のもとになっているのは、レイモンド・カーヴァーの9つの短編と1篇の詩である。映画では、夫婦という関係を軸として、20人を越える登場人物たちの日常が巧みにコラージュされ、ひとつの世界にまとめあげられている。原作はカーヴァーだが、映画にはカーヴァーの文学的な世界はほとんどまったく取り込まれていない。完全なアルトマンの世界である。
それは、登場人物たちの職業にはっきりと現れている。アルトマンの狙いがよくわかるのが、たとえば、テレビのニュース番組の解説者であり、映画のメイクアップ・アーティストであり、ピエロに扮装する出張サービスであり、テレホン・セックスのアルバイトだ。これらは、ブルーカラーの登場人物が多いカーヴァーの世界には見られない職業であり、アルトマンはある狙いをもって、作為的にこうした職業を選んでいる。簡単にいえば、見せたり、演じたりする仕事である。
現代人は多かれ少なかれ、他人の目、見られることを意識している。それが、アメリカのロス郊外となれば、なおさらである。そして、見られることを意識すればするほどに、自分の内面ではなく表層に対する意識が強くなっていく。アルトマンはこの映画で、見せたり演じたりする職業を巧みにドラマに散りばめ、人々が日常のなかでいかにして”表層”にとらわれていくのかを描いている。
プール掃除を仕事にしている男は、家に戻ると、妻が家計を助けるためにテレホン・セックスのバイトに精を出している。夫はそれがあくまで演技であることは承知しているが、次第に刺激をおぼえ、自分にも演技をしてほしいと思うようになる。浮気性の警官は、専業主婦の妻から、彼女が画家の姉のために全裸でモデルになり、そこに偶然、義兄が現れたという話を聞かされるうちに、妻に対して欲情をかきたてられる。妻がウェイトレスをしている店にやってきた夫は、カウンターの客を相手に妻のことを自慢する。
この男たちは、第三者に対して演技をしたり、第三者に見られる妻の表層に欲望を覚える。この映画では、誰もがそんなふうにして、表層にとらわれていく。そんな人間同士の繋がりを、最も極端なかたちで示しているのが、先述の浮気性の警官が、勤務中に路上で、ピエロの出張サービスに行く女性の車を故意に停車させ、下心がみえみえの質問をはじめる場面だ。
個人であることよりも明らかに制服の印象が先に立つ男が、メイクと衣装で顔もスタイルも定かではない女にモーションをかけるというのは、考えてみるとかなり奇妙な光景である。
しかし、映画のなかでこの場面が特に浮いてしまうことはない。なぜなら、夫婦関係ですら、このふたりの関係と変わらないように描かれているからだ。
しかもこの映画は、様々な表層を巧みに交錯させることによって、表層を別な次元へと引きだしていく。それは、このような日常のコラージュに現れている。映画のメイクアップ・アーティストが、自分が作り上げたセクシーな女の裸体に興奮し、思わず友人に連絡する。その友人とは、先述のプール掃除を仕事にする男で、仕事の真っ最中だった彼は、隣の家のプールで、娘が全裸で泳ぎだすのを偶然、覗き見てしまう。その娘は、プールの真ん中で、まるで溺死体のように浮かびだす。そして、その家の2階の窓からは、娘の母親が、また自殺の芝居をしている娘を冷たく見下ろしている。
つまりこの映画では、単純に表層が強調されるばかりではなく、表層を通して本物と偽物の肉体や生と死が瞬時に転倒する。それは、この場面に限ったことではない。
たとえば、事故で昏睡状態になった息子を心配する母親がいるかと思えば、釣りの機会をふいにしたくないために、偶然、川に浮いているのを発見した全裸の女性の死体(これがプールの娘の芝居とダブることは言うまでもない)を放置する男たちがいて、また一方では、メイクアップ・アーティストが、恋人の身体を使ってせっせとリアルな死体を創作しているといった具合に、表層を通して境界が消失する危うい感触は、確実に日常を覆いつくしていくのである。
この映画からは、表と裏、向こう側とこちら側といった関係が消失し、すべてが表層と化した異様な世界が見えてくる。映画の冒頭に描かれるエピソードは、そんな世界をリアルなものにするのに、視覚的に大きな役割を果たしている。冒頭では、害虫駆除のために薬剤を散布するヘリがロスを飛び回る。このヘリの旋回は、目に見えない境界線を引き、舞台を巧みに限定する。 |