■■メイヘム・パーヴァの背景にあるもの■■
アガサ・クリスティの『スタイルズ荘の怪事件』や『アクロイド殺し』では、登場人物たちがカントリー・ハウスに集まり、そこで殺人が起こり、犯人捜しが始まる。このようにカントリー・ハウスや田舎町を舞台にしたミステリは、メイヘム・パーヴァ(Mayhem Parva)とも呼ばれ、20〜30年代のイギリスで人気を博した。
ロバート・アルトマンの『ゴスフォード・パーク』とフランソワ・オゾンの『8人の女たち』は、面白いことにどちらもこのメイヘム・パーヴァにひねりを加え、そこから独自の世界を切り拓いている。そんな2本の映画を楽しむために、この約束事の背景をいくらか頭に入れておくのも無駄ではないだろう。
メイヘム・パーヴァが当時の読者の心をつかんだのは、謎解きの魅力だけではない。『新版アガサ・クリスティー読本』のなかで、コリン・ワトスンはこのように書いている。
「メイヘム・パーヴァに描かれるイギリスは、ミュージカル・コメディの舞台と同じような神話の王国である。しかしその幻想は、創意ではなく、ノスタルジアから成り立っている。そこは現在に姿を留める過去の国――サラエヴォで一発の銃声が響いた瞬間に色あせはじめた風俗や習慣を、いつまでも留めている国である」
メイヘム・パーヴァの読者は主に中流階級の人々だったが、彼らは、第一次大戦の衝撃やロシア革命による社会主義の台頭、国内の経済の衰退や失業者の暴動といった現実から、秩序ある過去のイギリスに逃避していたのだ。
以前、カズオ・イシグロにインタビューしたとき、彼は『わたしたちが孤児だったころ』の出発点についてこのように語っていた。
「探偵小説はいつの時代にも人気のあるものですが、私が興味深いと思ったのは、第一次大戦直後のイギリスで特に大きな盛り上がりをみせたことです。イギリス人には強烈なトラウマが残っていました。初めて大戦という戦争の恐怖を体験し、政治の指導者が自分を見失い、ナショナリズムや人種差別主義、武力が支配し、たくさんの人間が死に、人々はイギリス社会がもうもとには戻らないと思うほどのショックを受けました。私は当時の世代は、探偵小説によって元気づけられ、その世界に逃避することで癒されていたのだと思います。その物語のなかでは、悪いことが起こって、美しく秩序あるイギリスがいかにして壊されるかがくり返し、くり返し語られる。しかし心配はいらない。探偵が現れて、秩序を回復してくれるから。探偵小説は、この歴史的な文脈において娯楽と同時に大いなる感動をもたらしてもいた。そこで、主人公の探偵が事件を解決すれば、世界の緊張も回避されるのではないかというアイデアが閃き、新作のひとつの出発点になったのです」
では、ふたりの監督は、メイヘム・パーヴァにどのようなひねりを加えているのか。
■■現実と虚構の混乱、形骸化していく階級■■
アルトマンの『ゴスフォード・パーク』は、1932年というメイヘム・パーヴァ全盛期のイギリスを背景にしている。だが、豪華なカントリー・ハウスに集まるのは、時代錯誤とさえいえる上流階級の人々である。クリスティの小説の舞台は、ほとんどが中流階級の知る世界であり、上流階級は、農業から工業への産業の転換、都市化などによって社会の中心から退いていた。だから、現実ではなく、メイヘム・パーヴァというフィルターを通してみると、必要以上に階級が際立つ。
ハウス・パーティに集まった上流の面々はメイドや従者をともない、屋敷のなかで彼らは、<階上の人々>と<階下の人々>に分けられる。付き人たちはしきたりに従って主の名前で呼ばれる。まさに秩序あるイギリスであり、そこに殺人事件が起こる。しかし、秩序を揺るがすのは必ずしも事件ではないし、真相が公になることもない。アルトマンは、見ることと見られることの関係や現実と虚構の混乱から、秩序に揺さぶりをかけていく。
階上の斜陽族は、階級ゆえに体面を保たねばならず、金や色恋をめぐって腹の探り合いや駆け引きを演じる。同じ階上の人間でも身分の低いメイベル夫人は、メイドもなく、誰からも相手にされず、孤独に苛まれる。階下の人々は階上に上がれば居ないに等しい存在であるため、人目を忍ぶやりとりも見聞きでき、体面が不要の階下ではゴシップが飛び交う。階上の人々は舞台の上で演じる役者たちで、階下の人々はそれを鑑賞する観客と見ることもできる。
そして、この階級をめぐる関係を揺さぶり、現実と虚構の混乱を招き寄せるのが、屋敷の主の従弟で、実在の作曲家にして俳優だったアイボア・ノヴェロであり、その友人でアメリカ人の映画プロデューサーのワイズマンだ。上流階級にとって彼らは、低俗な文化を代表する存在だ。だからノヴェロの弾き語りに斜陽族は鼻も引っ掛けないが、メイベル夫人や階下の人々は、そのセンチメンタルでロマンチックな世界に酔いしれる。
しかしその歌詞は、実は間もなく起こる殺人事件の真相を暗示している。ワイズマンはカントリー・ハウスで起こる殺人事件という新作の構想を語り、斜陽族は低俗な話題に辟易するが、虚構は現実となって彼らを飲み込んでいく。さらに、ワイズマンの従者が実は従者ではなかったことが明らかになるに及んで、見ることと見られることの関係が入り組み、現実と虚構がさらに混乱し、上下の関係が揺らぎ、形骸化していくことになる。
■■虚構性と身体性の融合、崩壊していく家族とマチズモ■■
一方、『8人の女たち』の舞台になるのは、50年代フランスのカントリー・ハウスだ。クリスマス・イヴにブルジョアの一家が顔をそろえるが、雪に閉ざされた屋敷のなかで一家の主が殺害されているのが発見される。電話線は切断され、車も壊され、警察を呼ぶこともできない。
そんな孤立した状況のなかで犯人捜しが始まる。容疑者は、主の妻、妹、義母、娘、メイド、家政婦など、8人の女たち。メイヘム・パーヴァの定石どおり、彼女たちはそれぞれに隠し事をしたり、嘘をついたりしている。この映画では、そんな彼女たちの胸の内が、なんとミュージカル仕立てで明らかにされていく。
先ほど引用したコリン・ワトスンの文章では、メイヘム・パーヴァの描く世界がいかに非現実的であるのかを強調するために、ミュージカル・コメディの舞台に例えられていたが、そんなメイヘム・パーヴァとミュージカルを結び付けてしまうところが、なんともオゾンらしい。
オゾンの独自の世界は、異なるふたつの方向性によって構築されている。まず一方では、虚構性がどこまでも強調される。この映画では、メイヘム・パーヴァが神話の王国であることが意識され、キャラクターやドラマ、衣装や屋敷の内部の造形、色彩に至るまで、徹底的にリアリズムを排し、人工的で非日常的な空間を作り上げている。 |