古いお屋敷に住む老女クッキーは、亡夫に会うために自殺するが、自殺を一族の恥として許すことができない姪のカミールは、それを強盗殺人に見せかけ、クッキーと家族同然の付き合いをしていた黒人の親友ウィリスが逮捕されてしまう。ところが彼女が打った芝居と町の住人の絆は奇妙なよじれを見せる。ウィリスは留置場に入れられたものの、釣り仲間を信じる保安官たちは、扉に鍵をかけようともせず、復活祭のご馳走が持ち込まれる。一方、カミールは叔母のお屋敷を乗っ取るが、<立ち入り禁止>のテープでぐるぐる巻きになった屋敷に住む彼女とその妹は、さながら囚われの身のように見える。
そんなカミールは最後には、自分が演出していたはずの『サロメ』のなかのエロド王になってしまう。ワイルドの『サロメ』では、シリア人の隊長が自殺したとき、兵士がこういう台詞を口にする、「王は死骸がお嫌ひだ、自分で殺したもののほかはな」。カミールには、この台詞が暗示する皮肉な結末が待っている。それはまさにアルトマン好みの表層と真実の転倒なのである。
それだけに新作でも、ふたりの呼吸はぴたりと合っている。まずオープニングでは、『ザ・プレイヤー』を髣髴させるワンカットの長回しで、産婦人科の医院で女たちに取り巻かれたDr.Tの世界が鮮やかに描き出され、舞台が限定される。女たちへの愛情や思いやりを信条とする彼にとって、そんなふうに病院が繁盛するのはけっこうなことだが、ある意味で彼は囚われの身でもある。
映画は、Dr.Tが年の行った婦人を診察している場面から始まる。婦人は彼の家族のことを尋ねるが、その答はまったく耳に入っていない。全神経は診察されている下半身に集中しているからだ。彼女はおそらく身体に問題があるわけではない。罪を犯すこともなく、いい男の前で自分をさらし、触れられることで密かな欲望を満たしているのだ。Dr.Tによる診察は、ダラスに住むアッパーミドルの婦人たちにとって、豊かな生活のステイタス・シンボルとなり、Dr.Tはそのステイタスという表層に囚われてしまっている。
彼の存在はブランドと変わりがない。この映画には、Dr.Tの妻ケイトとふたりの娘、ケイトの妹ペギーがモールでショッピングをする場面がある。そこでは意識的にブランドが強調されている。彼女たちが所有し、身にまとうそれらのブランドは、ステイタスを象徴している。興味深いのは、そんな場所でケイトが洋服を脱ぎ出すことだ。豊かだが表層的な生活に疲れた彼女は、服を脱ぎ捨てることで彼女がまとうステイタスも脱ぎ捨てる。これは、婦人たちがDr.Tの前で裸になるとはわけが違う。そして彼女には、ステイタス・シンボルと化した夫も必要ではなくなるのだ。
ここで注目したいのは、水をめぐるアルトマンのマジックだ。この映画で水はステイタスという呪縛からの解放を暗示している。ケイトはモールの噴水に入り、頭から水を浴びることで自分を解き放つ。Dr.Tにとっても、雨という水が転機に繋がる。彼は、突然の雨を避けてカントリー・クラブにたどり着いたところでブリーに出会う。各地を転戦するゴルファーである彼女は、彼をステイタス・シンボルとは見ない。だからDr.Tは彼女に惹かれる。しかし、彼が自分に目覚めるためには、雨に濡れる程度の水ではまだまだ足りない。
『相続人』でハリケーンを呼び戻したアルトマンは、ここでも大雨や竜巻を駆使して、限定された空間に囚われたDr.Tに揺さぶりをかける。女ばかりに囲まれた彼は、ディディの結婚式でも男の家族ができる機会を逃す。しかし竜巻によって未知の世界に運ばれたとき、初めて医師として裸の存在になり、裸の男の子を手にすることができる。この未知の世界の様子を見ると、映画の視界がダラスからアメリカとその南へと広がり、アルトマンがアン・ラップの脚本に政治的な寓意を盛り込んでいるようにも思えてくる。80年代に始まり、いまのアメリカの基盤となった金持ち優遇、弱者切り捨ての政策は、国内や南とのあいだに貧富や経済の大きな格差を生みだした。そういう意味では、Dr.Tは現代アメリカの呪縛から解き放たれると見ることもできるのだ。 |