カミールは一芝居打ったわけだが、この映画ではそれ以前からそこかしこで芝居が始まっている。映画の冒頭で、一度酒場を出たウィリスは、店に戻ってきて水をもらう振りをしながら、棚からワイルド・ターキーのボトルを失敬する。その翌日、彼は酒屋でわざわざ同じ酒を買い、忘れ物をした振りをして店に行き、ボトルを棚に戻す。実は店主はそれを知っているが、口には出さない。それがこの町の習慣なのだ。
一方、彼がボトルを失敬した頃、カミールとコーラも町の教会で芝居に専念していた。町を仕切るカミールは、ワイルドの「サロメ」を祝祭日の出し物に決め、妹をサロメにして、自らは演出家となり、リハーサルをしていたのだ。しかも彼女は自分が「サロメ」の共作者であると主張し、そんな舞台の延長で、伯母の死まで演出してしまったわけだ。その演出はまんまと成功したかに見えるが、町の習慣とこの姉妹の芝居は次第に奇妙なよじれを見せ始める。
ウィリスは留置場に入れられたものの、保安官を筆頭に、その扉を閉めて、鍵をかけようとする者はいない。しかもそこには、容疑者と親しいコーラの娘エマや釣り仲間の弁護士などが集まり、復活祭のご馳走が差し入れられる。もはや住人たちにとってそこは留置場ではない。一方、伯母の遺産を相続したつもりのカミールと妹は、伯母の屋敷に住み始めるが、<立ち入り禁止>のテープでぐるぐる巻きになった屋敷のなかの彼らは、さながら囚われの身である。
そして映画が意外な結末を迎えるとき、カミールが「サロメ」の共作者であることも頷けてしまう。「サロメ」に登場するエロド王は、兄の妃であったエロディアスを奪い、洗礼者ヨカナーンから近親相姦の罪人として厳しく糾弾される。この映画の結末でも、かつてカミールと妹が町から姿を消していたときに、彼女が妹にエロド王的仕打ちを加えていたことが暗示される。しかも「サロメ」には、シリア人の隊長が自殺したときに、王や側近たちが自殺を蔑む場面がある。
つまり彼女は、舞台の延長で現実を演出したのではなく、町の外に隠蔽した事実を、教養が香る「サロメ」に変えて持ち込み、町を仕切ることで自己を正当化しようとしていたことになる。しかし演出に熱中するあまり、彼女は自分が演出家ではなくエロド王になっていることに気づいていない。その結果、サロメである妹からとんでもないしっぺ返しを喰らうことになる。
ワイルドの「サロメ」では、シリア人の隊長が自殺したとき、兵士がこういう台詞を口にする「王は死骸がお嫌ひだ、自分で殺したもののほかはな」。この台詞には、映画の皮肉な結末が見事に集約されているのだ。 |