ムトゥ 踊るマハラジャ
Muthu


1995年/インド(タミル語)/カラー/166分/シネスコ
line
(初出:「キネマ旬報」1998年7月上旬号、若干の加筆)

 

 

”スーパースター”ラジニのふたつの顔

 

 「ムトゥ 踊るマハラジャ」には、映画というものの根源的な魅力を再認識させるような新鮮なインパクトがある。インド映画の大半を占める娯楽作品には、まず何よりも歌と踊りがあり、3時間にもなろうかというドラマには、ロマンスにアクション、コメディからメロドラマまで、あらゆる娯楽の要素が盛り込まれているといわれる。「ムトゥ」には、まさしくそうした要素がすべて盛り込まれ、しかもそのひとつひとつの演出が半端ではない。

 主人公の男女のロマンスを彩るミュージカル・シーンでは、1曲のなかで歌い踊る男女の集団の衣装や背景の色調が次々と鮮やかに変化し、ヒロインに扮する人気女優ミーナは、神秘的な瞳と豊満な肉体で観客を魅了する。大地を揺るがす激しい馬車チェイスは、スケールも大きくダイナミックであり、ブルース・リーの影響が色濃い格闘シーンは、サービス精神旺盛なアクロバットへとエスカレートしていく。

 そこには純粋な娯楽として独自の発展をとげてきたインド映画ならではの魅力が凝縮されている。そのなかでも最も印象的なのは、主人公ムトゥに扮するラジニカーント(以下ラジニ)の存在だ。彼は、映画の冒頭で"スーパースター"というクレジットをそえて紹介される。かつてハリウッドには、スターを頂点として、スタッフや他のキャストがそのスターの魅力を最大限に引き出すために奉仕するスターシステムがあったが、この「ムトゥ」はラジニを頂点とするスターシステムによって作りあげられている。この映画のドラマ、ミュージカルやアクションも、彼の存在と密接に結びつき、映画をいっそう魅力的なものにしているのだ。

ラジニはスーパースターと言われるだけあって、インターネット上にも彼に関するサイトがたくさんある。そのひとつ "Superstar Rajinikanth Site" を覗いてみると、彼を頂点とするスターシステムが見えてくる。ここでは、昨年(97年)に行われたラジニの次回作に関する彼のファンへのアンケートとその集計結果が公表されている。そのアンケートには、彼の次回作は誰に監督してほしいか、音楽は誰に作曲してほしいか、ヒロインは誰に演じてほしいかといった質問が並び、選択肢として彼の近作を演出した監督や共演したヒロインの名前が列記されている。

 まさにまずスターとしてのラジニが存在し、その魅力を引きだすにはどんなスタッフ、キャストが望ましいのかという発想が定着しているのだ。ちなみに、次回作ではどんな映画が観たいかという質問には、アクション、コメディ、ラジニのお決まりのパターン、その他という4つの選択肢が用意されているが、お決まりのパターンが5割を占め、コメディ、アクションとつづいている。


◆スタッフ◆

監督/脚本 K・S・ラヴィクマール
K.S. Ravikumar
撮影 アシュークラージャン
編集 K・タニカーチャラム
音楽 A・R・ラフマーン
A.R. Rehman

◆キャスト◆

ムトゥ
ラジニカーント
Rajinikanth
ランガナーヤキ ミーナ
Meena
ラージャ サラットバーブ
Sharathbabu
アンバラ ラーダー・ラヴィ
Radha Ravi
テナバン センディル
Senthil
 
 


 ところで、そんなスーパースターというとすごい二枚目を想像したくなるところだが、ラジニは決して男前とは言いがたい。彼はもともとバスの車掌をしていたが、検札などの強烈なパフォーマンスが評判となって映画界にスカウトされた。彼を映画デビューさせたK・バーラチャンダル監督は、その目つきの鋭さに引かれたという。そこで彼は、まず悪役として注目されるようになり、酒のために身を持ち崩しかけたこともあるが、その苦境を乗り切り、異彩を放つヒーローへと転身を果たした。彼のスーパースターとしての圧倒的な人気というのは、そうしたキャリアとは無縁ではない。つまり、一方ではきわめて庶民的で身近な存在であり、もう一方では二枚目スターを押しのけてしまうスーパースターなのだ。

 「ムトゥ」でラジニ扮するのは、タミルナードゥ州の大地主の屋敷で主人の忠実な右腕として働くムトゥ。物語は彼と旅芸人一座の歌姫ランガのロマンスを軸に、彼の主人も含めた恋の三角、四角関係があり、この地主の利権を乗っ取ろうとする策謀があり、さらにはムトゥの出生の秘密へと話が広がっていく。

 この映画には、ラジニならではの魅力が実に巧みに引き出されている。たとえば映画の導入部だ。スーパースター・ラジニというクレジットにつづくオープニングのシーンは、まさにラジニの独壇場といっていいだろう。それは主人の誕生日の朝で、屋敷には使用人たちが居並んでいるが、ムトゥの姿だけが見当たらない。そこに馬車に乗ったラジニがさっそうと現われる。ここでポイントになるのは、頂点に立つスーパースターでありながら使用人に扮し、しかもそれを強調するかのようにのっけから「ご主人様はただひとり……」と歌いだすところだ。ラジニは庶民を代表している。また彼は、いつも首に手ぬぐいをかけ、凄まじい形相とともにその手ぬぐいで怒りを表現したり、ヌンチャクのような武器にすらしてしまう。そういうとんでもない俗っぽさが親近感をかもしだす。

 そして、それゆえにアクションやミュージカルの効果というものがいっそう際立つことになる。たとえば、ムトゥとヒロインのランガは、激しい馬車チェイスの果てに、気づいてみると隣りのケーララ州に迷い込んでいる。そこはムトゥにしてみれば、タミル語が通じない異世界である。映画は、言葉の壁をネタにしたコメディも交えながら、ファンタジックな空間を切り開いていく。旅芸人の派手な衣装で着飾っているランガは、この異世界で高貴な人物と誤解される。要するに彼らはそこで階級意識から解き放たれる。そして、ふたりの情熱を表すシュールな映像や現実離れした華麗なミュージカル・シーンが、そのロマンスを引き立てることになる。そんなふうにみると、アクションやミュージカルが、ラジニの二面的な魅力を際立たせていることがよくわかるはずだ。

 そんなふたりは映画の終盤で現実に引き戻されるばかりではなく、陰謀に巻き込まれる。そこで明らかにされるムトゥの出生の秘密という展開も、物語とは別のレベルで、映像を通してラジニのもうひとつの魅力を引き出すことになる。彼は二役をこなすことで、ムトゥとは対極の立場にある人物を華麗に演じることになるからだ。

 「ムトゥ」の魅力は、ラジニが持つふたつの顔の魅力を最大限に引き出すところにある。ラジニは映画の力によって、庶民の代表でありながら、階級から解き放たれたり、あるいは庶民の上に君臨するという矛盾を超越し、スーパースターとなるのだ。


(upload:2001/11/18)
 

《関連リンク》
インド映画のなかのタミル語映画
――『ヤジャマン』『アルナーチャラム』『アンジャリ』をめぐって
■
スジョイ・ゴーシュ 『女神は二度微笑む』 レビュー ■
アヌラーグ・バス 『バルフィ!人生に唄えば』 レビュー ■
カウリー・シンデー 『マダム・イン・ニューヨーク』 レビュー ■
キラン・デサイ 『グアヴァ園は大騒ぎ』 レビュー ■
キラン・デサイ 『喪失の響き』 レビュー ■
アラヴィンド・アディガ 『グローバリズム出づる処の殺人者より』 レビュー ■
エドワード・ルース 『インド 厄介な経済大国』 レビュー ■
レズ・アバシ 『シングス・トゥ・カム』 レビュー ■
ルドレシュ・マハンサッパ 『マザー・タング』 レビュー ■

 
 
 
amazon.co.jpへ●
 
ご意見はこちらへ master@crisscross.jp
 

back topへ




■home ■Movie ■Book ■Art ■Music ■Politics ■Life ■Others ■Digital ■Current Issues

 


copyright