インド映画のなかのタミル語映画
――『ヤジャマン』『アルナーチャラム』『アンジャリ』をめぐって


ヤジャマン 踊るマハラジャ2/Yajaman―――――――― 1993年/インド(タミル語)/カラー/165分/シネスコ
アルナーチャラム 踊るスーパースター/Arunachalam―― 1997年/インド(タミル語)/カラー/166分/シネスコ
アンジャリ/Anjali――――――――――――――――― 1990年/インド(タミル語)/カラー/147分/シネスコ/モノラル
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(初出:「キネマ旬報」1999年5月上旬号、加筆)

 

 

 インターネットでインドのタミル語映画について意見を交換するフォーラムTamil Films Forumを覗いてみると、そのなかに"スーパースターの後継者は誰か"というトピックがあった。スーパースターとはもちろん「ムトゥ 踊るマハラジャ」の大ヒットで日本でもお馴染みとなったラジニカーント(以下ラジニ)のことだ。

 49年生まれのラジニはもう決して若いとは言えないし、引退の噂も囁かれているだけに、こんな話題が出るのも不思議ではない。逆に少し不思議になるのは、この話題をめぐる意見交換のなかで、確かに何人かの若手俳優の名前が上げられてはいるものの、ラジニの立場がなかなか揺るぎそうにないことだ。

 映画が娯楽の王様であるインドであれば、新しい世代のアイドルが次々と彼を追い越していってもおかしくないはずなのに、彼は根強い人気を維持しているのである。

 「ヤジャマン 踊るマハラジャ2」と「アルナーチャラム 踊るスーパースター」はともにそのラジニの主演作品だが、この2本を観ると彼の根強い人気の秘密がわかる気がしてくる。

 「ヤジャマン」は、「ムトゥ」のコンビであるラジニとミーナの初共演作で、ラジニは村人の尊敬を集める富豪に扮し、村の指導者の座をめぐって卑劣なライバルと因縁の対決を繰り広げる。この映画には主人公とヒロインをめぐるドラマに悲劇的な展開があり、「ムトゥ」とは対照的な泣かせる作品になっている。

 一方「アルナーチャラム」は、ラジニにとって「ムトゥ」以来2年振りの新作で、彼は村の大富豪の長男に扮するが、実は孤児だったことがわかり、大都会マドラスにやって来る。そこで自分が大財閥の創始者のひとり息子であることを知った彼は、莫大な財産を狙う悪党たちの陰謀を打ち砕くため、相続の条件として父親の遺言に定められた大金をとことん散財するゲームに挑戦する。

 「ムトゥ」では、ラジニとミーナが激しい馬車チェイスの果てにタミルナードゥ州から隣のケーララ州に迷い込み、タミル語が通じない異世界で階級から解き放たれ、ファンタジックなロマンスを繰り広げた。この2本の映画では、タミル語が別なかたちで強調されている。

 「ヤジャマン」では、悪党の息がかかった役人が主人公の財産を取り上げに来たとき、ラジニは村人たちの前で役人に対して、みんなにわかるように英語ではなくタミル語で話せと啖呵を切る。

 「アルナーチャラム」でも、前半の歌と踊りのシーンの歌詞を通して、主人公がタミル語しかわからない生粋のタミル人であることが語られ、さらにマドラスを舞台にした後半では、散財ゲームを開始した彼がホテルを貸し切ろうとしたとき、その支配人に対してタミル人なら英語ではなくタミル語で話せという台詞を口にする。

 ラジニがこのように映画のなかでタミル語を強調するのは、ヒンディー語映画との力関係と無縁ではない。たとえば、アメリカ・オンラインには国別の掲示板があるが(※最近はAOLを使っていないので、いまもあるかどうかはわからない)、インドのなかの映画の掲示板を開いても、ラジニやタミル語映画に関するメッセージにはまずお目にかかることはない。

 そこではほとんどインド映画=ヒンディー語映画の扱いになっているからだ。それはもちろんインド映画のなかでヒンディー語映画が優位を占めていることを物語っている。

 そこで今度はインターネットでタミル語映画のサイトをチェックしていくと面白い表現に出くわす。インド映画がボンベイを拠点にしていたことからボリウッド(Bollywood)とも呼ばれることはよく知られているが、最近、タミル語映画のサイトではKollywoodという表現をちらほらと見かける。このKの出所は定かではないが、ラジニのホームページを作っているあるインド人にメールで尋ねてみたところでは、タミル語映画の拠点であるマドラスに、俳優や女優がたくさん暮らすKodambakkamという地区があり、そこから取られたのではないかということだった。

 タミル語映画でラジニが別格の存在感を放つのは、優位にあるヒンディー語映画の世界に対してタミル人の救世主を演出するところにある。もちろん、ただタミル語を強調するだけなら若手の俳優たちにもできないことはないが、ラジニの場合はもう一方で、バスの名物車掌から映画界入りし、悪役から頂点に上り詰めるというプロフィールが物をいっている。

 「アルナーチャラム」の終盤には、私欲を捨て英雄となった主人公が、自分の出発点に戻るためにバス停でバスを待つという印象的なシーンがある。この映画の設定では、彼は村の大富豪の長男として育ったのだから、バスなどとは縁がないはずなのだが、ラジニ個人の歴史がドラマすら捻じ曲げてしまうところに、彼の絶大な人気の秘密を見ることができる。

 さらに、ラジニのユニークなクンフー・アクションも無視できない。最近の「THE TIMES OF INDIA」のある芸能記事(※この原稿をアップする時点ではもはや記事へのアクセスができなくなっていた)では、タミル語を中心としたインド南部のヒット作をボリウッドでリメイクすることがちょっとしたブームになっていることを伝えているが、その記事のなかにラジニがヒンディー語映画のアクションに影響を与えているという話が出てくる。


―ヤジャマン―

Ejamaan (1993) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本
R・V・ウダヤクマール
R.V.Uthayakumar
撮影 A・カルティックラージャ
A.Kartlhic Raja
編集 B・S・ナガラージ
B.S.Nagaraj
音楽 イライヤラージャ
Illaiyaraja

◆キャスト◆

ヤジャマン
ラジニカーント
Rajinikanth
ワイティーシュワリ ミーナ
Meena
ワッラワラーヤン ナポレオン
Napoleon
(配給:ジェイ・シー・エイ)


―アルナーチャラム―

Arunachalam (1999) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本
スンダルC
Sundar C.
撮影 センディルクマール
SenthiiKumar
編集 P・サーイシュレッシュ
P.Saisuresh
音楽 デーヴァ
Deva

◆キャスト◆

アルナーチャラム
ラジニカーント
Rajinikanth
ヴェーダヴァッリ サウンダリヤー
Soundarya
ナンディニ ランバー
Rambha
(配給:日本スカイウェイ/アジア映画社)


―アンジャリ―

 Anjali
(1990) on IMDb


◆スタッフ◆

監督/脚本
マニラトナム
ManiRatnum
撮影 マドゥ・アンバト
Madhu Ambat
音楽 イライヤラージャ
Illaiyaraja

◆キャスト◆

アンジャリ
ベビー・シャーミリ
Baby Shamiles
父シェーカル ラグヴァラン
Raghuvaran
母チトラ レーヴァティ
Ravathi
兄アルジュン マスター・タルン
Master Taun
姉アヌ ベビー・シュルティ
Baby Shruti
(配給:ゼアリズ)
 
 
 


 そういう意味では、クンフーを独自に取り入れた彼のアクションはタミル的なのだ。要するに、彼のあらゆる独自性がタミル人の救世主の条件であるかのように定着しているということである。

 もう1本の映画「アンジャリ」は、同じタミル語の映画界で活躍するマニラトナム監督の90年の作品だが、この監督の世界には、独自性をタミル的なものへと集約していくラジニのそれとは対照的な魅力がある。それは以前公開された「ボンベイ」にもよく現れている。

 この映画は、イスラム教徒の娘とヒンドゥー教徒の若者の愛と絆を軸に、同じインド人が宗教の違いによって憎み、殺し合うことの虚しさを浮き彫りにしている。その「ボンベイ」を踏まえて「アンジャリ」を観ると、この監督があらゆる対立や軋轢の源となる人間同士の違いというものを見つめ、どのようにお互いが境界を乗り越え、和合へと向かうことができるのかを描いているのがわかる。

 この映画の主人公である4人家族は、死産だった3人目の子供アンジャリの悲劇を乗り越えて生活しているかに見えるが、ある日、そのアンジャリが生きていることが明らかになる。実は父親は、彼女が生まれるとき、医師から彼女が知的障害を背負い、しかも長くは生きられないことを告げられ、妻を苦しめないため死産ということにして、密かに娘の面倒をみていたのだ。

 真実を知った母親は何とか生き延びている娘を引き取ることにするが、アンジャリはアパートの住人たちばかりか、実の兄や姉からも偏見の目で見られることになる。

 アンジャリとは、インド人が挨拶したり拝んだりするときの合掌の所作を意味する。それはすなわち言葉を必要としない共通言語であり、登場人物たちは、アンジャリと触れ合い、彼女を鏡として自分を見つめなおすことによって次第に偏見を拭い去っていく。そんなアンジャリの存在は、タミル語を強調するラジニといかにも対照的だが、タミル語映画らしい共通点を見ることもできる。

 インドの北と南の宗教観には、北では聖なるものをあくまで抽象的、観念的なものとみなすのに対して、南では身近な存在のなかに宿っているとみなすような違いがあるとよくいわれる。そういう意味ではラジニが演出するタミル人の救世主もアンジャリも身近に存在する神の化身という発想の上に成り立っているのである。


(upload:2001/11/18)
 

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