フレンチアルプスで起きたこと(レビュー02)
Force Majeure / Turist / Tourist Force Majeure (2014) on IMDb


2014年/スウェーデン=デンマーク=ノルウェー/カラー/118分/スコープサイズ
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(初出:『フレンチアルプスで起きたこと』劇場用パンフレット)

 

 

スウェーデンの異才、リューベン・オストルンド
『フレンチアルプスで起きたこと』までの道程

 

 スウェーデンの異才リューベン・オストルンド監督にとって4作目の長編となる『フレンチアルプスで起きたこと』(14)では、スキー休暇を過ごすためにフレンチアルプスにやって来たスウェーデン人一家の5日間の物語が描かれる。1日目はそろってスキーを楽しむが、2日目に事件が起きる。山腹のテラスで一家が昼食をとっているときに、付近の山で雪崩が発生する。テラスにいた人々はそれを写真やビデオに収めるが、気づけば目前に迫っている。母親は咄嗟に子供たちを守ろうとするが、父親は姿を消していた。そして、切迫した状況で父親がとった行動が、その後の家族の関係に複雑な波紋を広げていく。

 筆者がこの映画を観て最初に思い出したのは、ジュリア・ロクテフ監督の『ロンリエスト・プラネット 孤独な惑星』(11)のことだった。この映画では、婚約したての若い男女アレックスとニカがグルジアを訪れ、山岳ガイドを雇ってトレッキングに出かける。そんな彼らの前に山に暮らす男たちが現れ、いきなりふたりに銃を向ける。動転したアレックスは咄嗟にニカを楯にする。ニカはすぐにアレックスの背後に回りこむが、その一瞬の出来事がふたりの関係、そしてガイドを含む3者の関係に微妙な影響を及ぼしていく。

 『フレンチアルプスで起きたこと』のプロダクション・ノートで、オストルンド監督は、この物語の出発点になった寓話について、以下のように語っている。

「数年前のことですが、あるスウェーデン人のカップルが(実は私の友人ですが)ラテン・アメリカを旅していた時に、突然どこからともなく拳銃を持った男が現れて、彼らの眼前で銃を発砲したのだそうです。その時夫は本能的に逃げて隠れたのですが、妻は置き去りにされました。彼らはスウェーデンに帰国したのですが、妻は、アルコールが入ると、この物語を何度も何度も繰り返し話すのでした」

 ここで筆者が注目したいのは、そんなエピソードにインスパイアされた作品が、なぜ『ロンリエスト・プラネット』のような物語ではなく、『フレンチアルプスで起きたこと』になったのかということだ。オストルンド監督はもともとスキーに熱中し、スキーを中心としたスポーツのドキュメンタリーから映像作家としてのキャリアをスタートさせた。そんな経験は新作の舞台やディテールと無関係ではないが、より重要なのはこれまでの監督作で掘り下げてきたテーマ、切り拓いてきた独自の世界観だろう。

 長編第2作の『インボランタリー(英題)』(08)では、異なる5つの物語が交錯していくが、小学校の女性教師を主人公にした物語にテーマが示唆されている。彼女は教室で、心理学者ソロモン・アッシュが考案したピア・プレッシャー(=仲間や同僚などから加えられる社会的な圧力)の実験(の子供版)を行なう。ひとりの生徒に長さの違う2本の線が描かれたパネルを見せ、どちらが長いかを答えさせる。その後で全員がサクラである他の生徒たちが反対の答を選ぶ。それを繰り返すと最初に答えた生徒も、頭にあるのとは反対の答えを選択するようになる。

実験の目的はもちろん生徒たちに危険性を学ばせることにあるが、5つの物語は様々なピア・プレッシャーが現実の社会に潜んでいることを明らかにしていく。60歳の誕生日を祝福される男性は、余興の花火で負傷するが、パーティを台無しにしないために限界まで耐え続ける。とあるバスツアーでは、休憩中にトイレのカーテンレールが壊れていることに気づいた運転手が、犯人が名乗り出るまで出発しないと言い出し、乗客が我慢比べを強いられる。実験を行なった女性教師は、生徒を虐待している同僚に抗議するが、逆に自分が孤立していく。オストルンド監督は、ワンカットの長回しを多用し、そんなドラマに緊張感を醸し出している。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   リューベン・オストルンド
Ruben Ostlund
撮影 フレドリック・ヴェンツェル
Fredrik Wenzel
編集 ヤコブ・セッシェル・シュルシンゲル
Jacob Secher Schulsinger
音楽 オーラ・フロットゥム
Ola Flottum
 
◆キャスト◆
 
トマス   ヨハネス・バー・クンケ
Johannes Bah Kuhnke
エバ リーサ・ローヴェン・コングスリ
Lisa Loven Kongsli
ヴェラ クラーラ・ヴェッテルグレン
Clara Wettergren
ハリー ヴィンセント・ヴェッテルグレン
Vincent Wettergren
マッツ クリストファー・ヒヴュ
Kristofer Hivju
ファッニ ファッニ・メテーリウス
Fanni Metelius
ブラディ ブラディ・コーベット
Brady Corbet
-
(配給:マジックアワー)
 

 続く短編『インシデント・バイ・ア・バンク』(09)には、その後の長編に繋がる関心が表れている。この映画は、オストルンド自身が実際に目撃者となった銀行強盗未遂事件に基づいている。彼がこの事件に興味を持ったのは、それまで思い描いていた銀行強盗と現実がまったく違っていたからだ。彼は自分が抱いていたイメージが、ハリウッド映画によって植えつけられたものであることに気づき、90人の人間を動員して事件を緻密に再現した。映画に登場する2人組の強盗は、いきなり銀行の入口を間違い、コンビの呼吸も合わず、逃走の手際も最悪で、目撃者たちの様子もどこか緊張に欠けている。オストルンドは、その一部始終をワンカットで撮影し、編集の段階でズームやパンなどのカメラワークを盛り込み、リアルにして滑稽にも見えるドラマを作り上げている。

 そして、長編第3作になる『プレイ』(11)には、この短編に見られた関心とテクニックが引き継がれている。この映画は、スウェーデンのヨーテボリ中心部で2006年から2008年にかけて、12歳から14歳の少年グループが他の子どもたちにカツアゲを働いていた事件に基づいている。映画の冒頭ではショッピングモールがワンカットの長回しで映し出され、黒人の5人組が白人の2人組に言いがかりをつける様子が、ズームやパンを駆使して描き出される。

 その後、白人の2人組にアジア人の友人が加わる。黒人のグループには、脅し役と宥め役という役割分担があり、標的となった3人を都心から人気のない辺鄙な場所へと誘導していく。ここでオストルンドが関心を持っているのは、白人とアジア人の少年たちに逃げる機会があっても、そういう行動をとろうとしないことだ。彼がこの映画で掘り下げているテーマは、マイク・デイヴィスの『要塞都市LA』の以下の記述と無関係ではない。

「ロサンゼルス・サウスセントラルやワシントンDCのダウンタウンのように、実際に街での暴力事件が急増した場所であっても、死体の山が人種あるいは階級の境界を越えて積み上げられることは滅多にない。だがインナーシティの状況について直接肌で感じた知識を持ち合わせていない白人中産階級の想像力の中では、認識された脅威は悪魔学のレンズを通して拡大されるのだ」

 黒人の少年たちは物理的な暴力を振るうわけではない。彼らは自分たちがどのように見られているのかを知っていて、そのイメージを巧みに利用しているのだ。しかし、イメージを利用しているのは必ずしも彼らだけではない。この映画には、先住民の衣装を身につけた南米人のグループが、路上でパフォーマンスを繰り広げる姿が映し出される。彼らは後に再び登場するが、今度はマクドナルドで普通に食事をしている。それは、彼らも生活のためにイメージを利用していることを示唆している。さらに終盤には、イメージをめぐる皮肉なドラマがある。黒人に金や所持品を奪われた少年の父親が、メンバーのひとりを見つけ出して、厳しく責め立てるのだが、通行人の女性から差別主義者とみなされ非難されることになる。オストルンドはそんな対象に対して自ら判断を下すことはなく、私たちが現実とイメージの狭間で生きていることを鮮やかに浮き彫りにしてみせる。

 では、新作『フレンチアルプスで起きたこと』の場合はどうか。ここまで書いてきたことを踏まえるなら、オストルンドが友人のラテン・アメリカでの体験談に刺激を受けても、そのまま映画化するはずがないことは容易に察せられる。彼は題材を徹底的に掘り下げ、独自の世界に変えている。そこでまず興味深いのが、彼が似たような事件を広範にリサーチした結果だ。プロダクション・ノートには以下のように説明されている。「生か死かという状況で、人々は自分の生存が掛かった場合、男性の方が女性に比べて逃げ出して自分を守るという傾向があることも明らかになっています」

 この映画ではそんな結果も踏まえ、オストルンドがこだわるイメージと現実が対置されていく。物語は主人公一家の記念撮影の場面から始まる。それはそのまま広告に使えそうな写真だ。彼らは典型的な中流家庭のイメージを生き、典型的な休暇を過ごすためにスキー・リゾートにやって来た。しかし、雪崩に遭遇したことで、イメージと現実の間に軋轢が生じる。

 そんなドラマでまず印象に残るのが、事なきを得てホテルに戻ってきた家族それぞれの反応の違いだ。子供たちは両親に対して明確なイメージを持っているので、それが崩れたショックと不安に苛まれている。母親のエバは起こったことを判断しかね、フラストレーションを感じている。父親のトマスは自分の本能が露になったことをまだそれほど深刻に感じてはいない。そんな段階から緊張が増していくのは、彼らがあらためて家族を意識し、役割分担が明確なそのイメージを取り戻そうとするからだ。

 さらに、自然という要素も見逃せない。自然は単なる背景ではなく、人間の内面と結びつけられている。映画のなかでスキー場の安全を確保するためのアバランチ・コントロールの衝撃音やリフトなどの機械音が強調されているのは偶然ではない。そんなふうに自然をコントロールする力は、家族のイメージに重ねることができる。エバは、マッツやファンニが同席する場でトマスを追いつめる。そして、トマスが家族の役割を果たせなかったことを認めることは、同時に家族のイメージを全面的に肯定することにもなる。

 オストルンドは、『プレイ』と同じようにそんな顛末に自ら判断を下すことはないが、この映画のラストには、もうひとつのドラマがある。山を下るバスの運転手が荒っぽい運転をするため、恐怖にとらわれた一家と他の乗客はバスを降りる。だがバスはその後、問題もなく走り去る。結果的に下車した人々は、集団で誤った行動をとったことになるが、やがてそこに協調性が生まれる。そんな光景には彼らを呪縛していたイメージがふと消え去るような奇妙な解放感がある。

《参照/引用文献》
『要塞都市LA』マイク・デイヴィス●
村山敏勝+日比野啓訳(青土社、2001年)

(upload:2017/07/21)
 
 
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