だが、この物語には物足りなさが残る。バートンが紡ぎ出す物語は、そのほとんどがふたつの世界を土台にしている。それは、カリフォルニア州バーバンクのサバービアにおける以下のような経験に起因している。
「ホラー映画を観ながら成長して、どういうわけか僕は、ゴシック/フランケンシュタイン/エドガー・アラン・ポオ的なもの全部と、郊外で成長するっていうこととの間に直接の感情的つながりを常に見いだすことができた」(『ティム・バートン 映画作家が自身を語る』)
バートンのユニークさは、まったく相容れないはずのふたつの要素が分かちがたく結びつき、ひとつの世界を作り上げてしまうところにある。つまり、彼にとって郊外とホラーの世界は、同じようにリアルで、同じように現実離れしている。だから、短編『ヴィンセント』では、郊外の日常とゴシックホラーのイメージが瞬時に切り替わり、短編『フランケンウィニー』と長編化された『フランケンウィニー』では、郊外と『フランケンシュタイン』が融合し、『シザーハンズ』では、パステルカラーの郊外とゴシック風の城があっけらかんと接続され、『ビッグ・フィッシュ』や『ティム・バートンのコープスブライド』では、それぞれにほら話と事実、生者と死者の世界の境界が崩れていく。
『アリス・イン・ワンダーランド』の前半部では、ワンダーランドに迷い込んだアリスが、何度も頬をつねるが、夢から醒めることはない。それは、ワンダーランドが同じようにリアルであることを意味している。だが、この映画のなかに存在するふたつの世界がそれ以上に深く結びついていくことはない。境界が揺らがないと、ワンダーランドという他界やイニシエーションに、バートンならではの独自性が希薄になる。だからどうしても物足りなさが残ってしまう。 |