ティム・バートンとフランソワ・オゾンが現代の日常と“物語”の距離や関係に関心を持っていることは、彼らが監督した『シザーハンズ』や『クリミナル・ラヴァーズ』から察することができる。
『シザーハンズ』の舞台は、人工的で、歴史という背景が希薄なサバービアだ。そこでは毎日、画一的で単調な生活が繰り返され、退屈している主婦たちは、周囲に少しでも変化があると好奇心を剥きだしにする。それは、物語が失われた世界だといえる。
しかしこの映画は、雪の降る日に、暖炉の前で、老婆が少女に物語を語りだすところから始まり、物語の想像力を駆使することによって、現代のサバービアのなかで孤立する少年の立場や感情をよりリアルに描きだしていく。
オゾンの『クリミナル・ラヴァーズ』では、学校で顔見知りの生徒を殺したリュックとアリスという高校生が、死体を捨てるために森に行き、「ヘンゼルとグレーテル」を思わせる状況に引き込まれ、森の男に監禁されてしまう。
そして、現実と物語の世界が逆転していく。アリスは、空虚な日常に退屈し、勝手に「不思議の国のアリス」のヒロインを演じているが、それはもはや形骸化した物語でしかない。リュックは、そんなアリスに操られ、殺人を犯してしまうが、森のなかで現実に根ざした物語の洗礼を受けることによって、初めて心の痛みを覚える。
この2作品の現実と物語の結びつきからは、バートンとオゾンそれぞれのこだわりが見えてくる。『シザーハンズ』で現実と物語を結びつけるのは、エドワードというハサミの手を持つ異形の存在だ。好奇心に駆られ、刺激を求めるサバービアの住人は、最初は彼を受け入れるが、ハサミの意味を理解するわけではなく、彼が自分たちの思い通りにならなければ、コミュニティから排除する。
『クリミナル・ラヴァーズ』では、性的な力関係が鍵を握る。リュックはアリスと性的な関係を持つことができないが、それは必ずしも彼がゲイということではなく、アリスが虚構に逃避し、現実を共有していないことを意味している。そんな彼は、森の男との支配と服従の関係を通して覚醒する。
ふたりの監督の新作は、こうした現実と物語の関係を踏まえてみると、彼らの世界観がより鮮明になることだろう。
バートンの『ビッグ・フィッシュ』は、父親と息子をめぐるドラマだが、彼らはそれぞれに物語と現実を代表している。父親のエドワードは、自分がこれまで体験してきた様々なホラ話を語ることを生き甲斐にしている。子供の頃からそれを聞かされてきた息子のウィルは、3年前の彼の結婚式で、父親が「息子が生まれた日に釣った巨大魚」の話をして、主役の座を奪ったことに激怒し、以来疎遠になっている。
しかし母親から、父親がもう長くないことを知らされ、パリから帰郷する。ジャーナリストであるウィルは、最後に本当の父親を確認したいと思うが、父親はホラ話をつづけ、映画には、若き日の彼の奇妙な冒険が次々と再現される。
この映画の原作は、ダニエル・ウォレスの同名ベストセラーだが、映画は、原作の持ち味を生かしながらも、しっかりとバートンの世界になっている。特に印象に残るのは、やはり異形の存在である。巨人のカールや首がふたつある美女などは、原作にも登場するが、その存在感はまったく違う。
原作では、人々を怯えさせるカールは、エドワードの説得に応じて農夫になり、成功を収めるだけだし、首がふたつある美女に至っては、エドワードが日本を訪れたときに、彼女が茶の湯を披露する場に居合わせたに過ぎない。
しかし、映画の彼らは、エドワードの人生の一部となっている。カールは彼と一緒に旅に出て、サーカスの一座に加わり、後に疲弊した町の再建にも協力する。茶の湯の美女は、朝鮮戦争の敵陣で兵士たちを慰問する歌手に変わり、極秘ミッションの遂行中に窮地に陥ったエドワードの命の恩人となる。さらに映画には、サーカス一座の面々に加えて、狼男までもが登場し、エドワードの恋の成就に一役買う。
もしエドワードが、この物語的な想像力を自分の人生に取り込むことがなかったら、彼はどんな人生を歩んでいたのか。彼がサンドラと生活するのは、まさに画一化された真新しいサバービアの世界であり、繰り返される日常を生きていたことだろう。
エドワードは、サバービアとは異質なもうひとつの世界、異形の仲間たちが共存する王国を作り上げた。そこに規格化を拒むバートンの姿勢を見ることができる。そして、ウィルは次第に物語的な想像力に目覚め、そんな王国の入り口に立つことになる。 |