フランソワ・オゾン監督は、『ホームドラマ』、『クリミナル・ラヴァーズ』、『焼け石に水』といった作品で、挑発的なアイデアやスタイルによって既成の価値観に揺さぶりをかけ、フランス映画界で異彩を放ってきた。しかし新作の『まぼろし』は、これまでの作品とはだいぶ趣が異なる。
シャーロット・ランプリング扮するヒロイン、マリーは結婚して25年になる50代の女性だ。夫婦は例年通り、フランス南西部にある別荘で夏の休暇を過ごすが、そこに予期せぬ出来事が起こる。人気のない浜辺で彼女がまどろむうちに、海に入ったはずの夫が忽然と姿を消してしまうのだ。結局、捜索隊も夫を発見することができない。
ところが、パリに戻った彼女は、夫との生活がつづいているかのように振る舞い、実際、彼女には夫が見えている。そこで、心配した親友が彼女に独身男を紹介し、彼女は男と関係も持つが、それはあくまで不倫である。しかしやがて夫と思われる死体が発見され、彼女は孤立していく。
映画には、このヒロインの視点に立って、消えた夫を登場させるあたりに飛躍があるものの、表現そのものは決して挑発的ではない。彼女の周囲の人間もわれわれも、彼女が幻想にとらわれていることは容易に察せられる。しかしオゾンは、それを単なる幻想として描いているわけではない。
オゾンの作品を観ていると、彼が水のイメージに特別な関心を持っていることがわかる。中編『海をみる』の主婦は浜辺で欲望に駆られ、林に入っていって男に身をまかせる。『ホームドラマ』で母子のセラピーは、彼らがプールに浮かぶ姿を通して描かれる。『クリミナル・ラヴァーズ』で殺人は体育館の更衣室、シャワーのもとで行われ、森の男の小屋から逃げ出したカップルは滝壷で初めて交わる。『まぼろし』で夫は海に消え、ヒロインがプールで泳ぐ姿が印象的にとらえられ、ラストでは再び海が背景となる。
水のイメージは裸体や欲望と結びつく。裸体はわれわれに自分たちの姿形を意識させ、肉体は揺るぎないものであるかのような印象を与える。しかし内なる欲望は、目に見える現実やセクシュアリティの揺らぎを招き寄せる。オゾンはそんな混乱のなかで、表層や先入観に縛られた登場人物たちの本来の姿を見極めようとする。
この『まぼろし』を観ながら筆者が思いだすのは、神経科学者V・S・ラマチャンドランが書いた『脳のなかの幽霊』のことだ。たとえば、この本には幻肢の話が出てくる。幻肢とは、事故や手術で腕や脚を失ったのに、その感覚がありありと残る現象だ。しかも場合によっては、存在しない腕や脚に耐えがたい激痛がともなうという。それでも常識的には手の施しようがないわけだが、著者は脳の錯覚を利用することで、その治療に成功した。
著者は脳と身体をめぐる様々な実験の結果を踏まえ、こんな結論に至る。「あなたの身体イメージは、持続性があるように思えるにもかかわらず、まったくはかない内部の構築であり、簡単なトリックで根底から変化してしまう」。さらに著者は、このような可能性も示唆する。「もしあなたがだれかを深く愛していたら、本当にその人の一部になるという可能性がないだろうか?たぶん(体だけでなく)魂もからみあうようになるだろう」。
『まぼろし』でオゾンが描きだすのは、まさにそんなヴィジョンだ。ヒロインは、幻想にとらわれた状態から、ただ現実に目覚め、夫の死を受け入れていくのではない。彼女は不倫によって、現実に存在する独身男と幻想の夫の間に立つが、彼女のなかで現実感を欠いていくのは独身男の方なのだ。彼女はこの不倫関係という揺らぎのなかで、観念的な愛ではなく、自己の本来の姿を見極め、それが夫へと繋がっていることを確認するのだ。
そして、この『まぼろし』と対比してみると興味深いのが、アルフォンソ・キュアロン監督のメキシコ映画『天国の口、終りの楽園。』だ。これは、メキシコ・シティに住む17歳のフリオとテノッチ、そしてスペインからやって来たルイサを主人公にしたロード・ムーヴィーであり、大人の女との出会いから生まれるエロティックでユーモアに満ちたドラマを通して、成長する若者たちを描いた青春映画のように見える。しかし面白いことにこの映画にもプールがあって海があり、オゾンほど確信犯的ではないものの、意外なところから、現実の揺らぎのなかで自己の本来の姿を探す旅が見えてくるのだ。
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