ティム・バートンの新作『エド・ウッド』は、一見、個人的な趣味に徹した作品のように見える。映画は全編モノクロで、50年代のハリウッドを舞台に、エド・ウッドの奮闘がオフビートなタッチで描かれる。エド・ウッドは、当時、低予算で面妖なSF・怪奇映画を作りつづけ、史上最低の監督≠ニいわれた人物だ。この映画でそのエドは、自分の女装趣味を生かし、
主演も兼ねた作品で監督デビューを飾り、いかがわしい予言者やプロレスラーたちをかき集め、世紀の傑作を求めて邁進し、奇妙な世界を作り上げていく。
マニアックな題材、偏執狂絡みのメロドラマ、ミニチュア風のハリウッド界隈の景観やエド・ウッドが繰り出す妄想的なヴィジョン。確かにどこを切っても、バートンの趣味の世界に見える。しかしながら、「シザーハンズ」が、ヴィンセント・プライスや怪奇映画、おとぎ話への愛着をただ趣味的に表現しただけの作品ではなかったように、この映画にもバートンの深層心理が反映されている。
この映画でまず注目したいのは、ベラ・ルゴシの存在だ。エドは、この往年のドラキュラ俳優と出会うことで自分の情熱にさらに拍車がかかっていくが、このベラの存在は実に印象深いものがある。彼は、ほとんど映画界からお払い箱の状態で、そっくりな住宅が整然と並ぶ安っぽいサバービアに暮らしている。その彼の家のなかは、過去の記憶が染みついた衣装や小道具で埋め尽くされている。
このサバービアとドラキュラ俳優のコントラストは、皮肉を通り越して、悲壮感すら漂う。なぜなら、あらゆる意味でオープンを基調とするサバービアは、影となる部分を最大限に切り詰めた世界であり、そんな世界に、まるで住宅が棺桶であるかのように、ゴシック的な世界を象徴するベラが押し込まれているのだから。しかも彼は、ヤクに救いを求め、ドラキュラにたとえるなら、
血のかわりにヤクを身体に流し込むことによってなおも象徴として生き長らえているからだ。
そこで思い出されるのは、もちろん『シザーハンズ』の舞台となったパステル・カラーのサバービアの世界である。あの映画で、主人公エドワードが暮らす屋敷は、影が切り詰められたサバービアに暮らす少年が、想像上の空間に築き上げた影の世界の象徴していた。それは、すべてを均質化してしまうサバービアのなかで、自分のアイデンティティを守る城でもあったわけだ。
そして、その少年とはいうまでもなくバートンその人である。 |