アメリカで活躍するイラン生まれの批評家ハミッド・ダバシは、『イラン、背反する民の歴史』のなかで、その本質として多文化的、多民族的でありながら、単一文化という認識を無理に当てはめられているイランを、「その場しのぎの借り物の過去と、無期延期された未来との狭間に囚われ」とか、「『国家』と呼ばれる人工的で無意味な構造のもとに押し込まれた、せめぎ合う『事実』の融合体」といった言葉で表現している。
そんなダバシの言葉は、アスガー・ファルハディの作品と無関係ではない。このイラン人監督が描き出す家族は、ダバシが言わんとするような国家の縮図になっているからだ。
同書には「石油経済に支えられた見せかけの富に頼る中流階級」という言葉も出てくるが、『彼女が消えた浜辺』(09)では、そんな中流階級の姿を見ることができる。エリという女性が消えたことで、自分たちの価値観が揺らぎだす彼らは、“その場しのぎの借り物の過去”を生きているといえる。『別離』(11)では、中流階級と下層階級の生活や価値観の違いが複雑に絡み合い、裁判にまで発展するドラマのなかで、事実がせめぎ合うことになる。
そんなファルハディの洞察と話術は、イランを離れ、パリを舞台にした新作でも変わらない。というよりもより洗練され、複雑な感情を鮮やかに引き出しているといえる。
離婚の手続をするために4年ぶりにテヘランからパリに戻ったイラン人のアーマドは、成り行きでフランス人の妻の将来をめぐる問題に巻き込まれる。アーマドの前の夫との間にできた二人の娘を育てるマリー=アンヌは、恋人のサミールと彼の息子と同棲し、再々婚に踏み出そうとしている。ところが長女がアーマドに、サミールには自殺未遂で植物状態になった妻がいて、母親にも責任があると告白したことから、事実のせめぎ合いが巻き起こる。
彼女はなぜ自殺未遂を起こしたのか。私たちは、その原因をめぐるサスペンスに満ちたドラマに引き込まれる。決定的ともいえるような事実が明らかになっても、さらに謎が膨らみ、意外な展開をみせる。
しかし、最も重要なのはその真相ではなく、過去や未来に対するファルハディの視点だ。この映画では冒頭から、映像と脚本の両面で様々な暗示や伏線が散りばめられている。映像では、窓を通して見るという行為が印象に残るはずだ。空港で再会したアーマドとマリー=アンヌが、駐車場で車をバックさせたときには、雨で後方が見えにくかったために何かに接触してしまう。その後のドラマでは、窓越しに人物を見るショットが頻繁に挿入される。
この窓をめぐる表現には、ふたつの意味が込められているように思えるが、緻密な脚本に埋め込まれているものを確認すれば、それが明確になるだろう。 |