彼女が消えた浜辺
Darbareye Elly / About Elly


2009年/イラン/カラー/116分/アメリカンヴィスタ/ステレオ
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(初出:「CDジャーナル」2010年9月号、EAST×WEST15、加筆)

 

 

どこを舞台にしても成り立ちそうな物語から
イランの歴史と現実が鮮やかに浮かび上がる

 

 イラン映画界の新たな才能として注目されているアスガー・ファルハディ監督は、この一作を観ただけでもかなりの切れ者であることがよくわかる。

 イランでは映画の製作に厳しい規制があり、映像作家は大きな犠牲を強いられている。クルド系イラン人のバフマン・ゴバディ監督は、許可がなかなかおりないために、無許可で『ペルシャ猫を誰も知らない』を撮り、イランを離れることになった。

 ところが、ファルハディ監督の作品を観ると、厳しい規制が大した負担になっていないような錯覚を起こしそうになる。決して普通ではないことを苦もなく普通のことであるかのように描き、余裕で独自の視点を提示しているように見えてしまうのだ。

 『彼女が消えた浜辺』では、大学時代の友人たちが家族連れで久しぶりに再会する。彼らはテヘランからカスピ海沿岸の避暑地まで足を延ばし、そこで週末を過ごそうとする。この小旅行を仕切る女性セピデーは、子供が通う保育園の先生エリも招待していた。最近離婚した男友達のアーマドに彼女を紹介するためだ。

 アーマドと他のメンバーたちはみな初対面のエリに好印象を持ち、彼女はすんなりとグループに受け入れられる。だがその翌日、浜辺にいたはずのエリが姿を消したとき、一同は彼女について“エリ”という愛称以外にほとんど何も知らなかったことに気づき、動揺が広がっていく。

 この物語はイランに限らずどこを舞台にしても成り立つように思える。だが、イランにおける厳しい規制という現実を踏まえるなら、それをクリアするために抽象度の高い物語になっていると考えるべきだろう。実際この映画は、イランの歴史と現実を鋭く掘り下げ、保守強硬派の現大統領アフマディネジャドが台頭することになった要因すら明らかにしているといえる。

 ファルハディ監督が関心を持っているのは、ごく普通の中流階級のなかに巣くう偏見だ。登場人物たちは、エリのことを深く知ろうとはせず、見かけだけで一方的に自分たちと同類だと判断し、快く迎え入れる。それは裏を返せば、見かけだけで判断され、彼らのような中流階級から排除される人々が存在することを意味する。そんな偏見が積み重なれば、対立の原因となるような境界が生まれる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本/美術/衣装   アスガー・ファルハディ
Asghar Farhadi
撮影 ホセイン・ジャファリアン
Hossein Jafarian
編集 ハイェデェ・サフィヤリ
Hayedeh Safiyari
音楽 アンドレア・バーワー
Andrea Bauer
 
◆キャスト◆
 
セピデー   ゴルシフテェ・ファラハニー
Golshefteh Farahani
エリ タラネ・アリシュスティ
Taraneh Alidousti
アーマド シャハブ・ホセイニ
Shahab Hosseini
ショーレ メリッラ・ザレイ
Merila Zarei
-
(配給:ロングライド)
 

 そこでイランにおける中流と貧困層の関係を振り返ってみると、この映画の狙いが明らかになる。イランではラフサンジャニ大統領の時代(1989−1997)に中流化が進行した。イラン出身の評論家ハミッド・ダバシの著書『イラン、背反する民の歴史』によれば、ラフサンジャニは「石油経済に支えられた見せかけの富に頼る中流階級を擁護し」、続くハタミ大統領は「同階級の社会的自由の確保をめざしていた

 ということは、中流は運よく富に恵まれ、大学に通い、豊かな生活を送っているに過ぎない。階級を明確に分けるような歴史的、文化的な背景や基盤など存在しないといってもいい。

 一方でこの二人の大統領は、「貧困にあえぐ都市部・農村部の厖大な下層民たちの存在」を「置き去りにして無視を決め込んだ」。そして、2005年の大統領選挙では、中流階級に反発する貧困層の人々が保守強硬派のアフマディネジャドを支持し、圧倒的な勝利の原動力となったのだ。

 この映画のなかで繰り広げられるドラマは、そんな現実と深く結びついている。登場人物たちを中流にしているのは、歴史的、文化的な基盤ではない。彼らは、単に見かけで人を分けるような枠組みに支えられて集団を形成しているに過ぎない。

 ところが、同類だと思っていたエリが何者なのかわからなくなることで、彼らを支えていた枠組みも崩壊していく。その結果、彼らの別の顔が見えてくる。近代的な価値観を身につけているように見えたセピデーの夫は突然、人が変わったようにイスラム的な男性性を露にする。精神的に自立しているように見えたセピデーも、自分の行為が信じられなくなり、すべてがプレッシャーに変わり、脆さを露呈する。

 見かけに囚われることによって見えなくなるのは、エリという他者だけではない。彼らは中流という曖昧な枠組みに依存しているだけで、実は自分自身がどのような人間で、どういう状況に置かれているのかが見えていないのだ。

《参照/引用文献》
『イラン、背反する民の歴史』 ハミッド・ダバシ●
田村美佐子・青柳伸子訳(作品社、2008年)

(upload:2010/10/02)
 
 
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