イラン映画界の新たな才能として注目されているアスガー・ファルハディ監督は、この一作を観ただけでもかなりの切れ者であることがよくわかる。
イランでは映画の製作に厳しい規制があり、映像作家は大きな犠牲を強いられている。クルド系イラン人のバフマン・ゴバディ監督は、許可がなかなかおりないために、無許可で『ペルシャ猫を誰も知らない』を撮り、イランを離れることになった。
ところが、ファルハディ監督の作品を観ると、厳しい規制が大した負担になっていないような錯覚を起こしそうになる。決して普通ではないことを苦もなく普通のことであるかのように描き、余裕で独自の視点を提示しているように見えてしまうのだ。
『彼女が消えた浜辺』では、大学時代の友人たちが家族連れで久しぶりに再会する。彼らはテヘランからカスピ海沿岸の避暑地まで足を延ばし、そこで週末を過ごそうとする。この小旅行を仕切る女性セピデーは、子供が通う保育園の先生エリも招待していた。最近離婚した男友達のアーマドに彼女を紹介するためだ。
アーマドと他のメンバーたちはみな初対面のエリに好印象を持ち、彼女はすんなりとグループに受け入れられる。だがその翌日、浜辺にいたはずのエリが姿を消したとき、一同は彼女について“エリ”という愛称以外にほとんど何も知らなかったことに気づき、動揺が広がっていく。
この物語はイランに限らずどこを舞台にしても成り立つように思える。だが、イランにおける厳しい規制という現実を踏まえるなら、それをクリアするために抽象度の高い物語になっていると考えるべきだろう。実際この映画は、イランの歴史と現実を鋭く掘り下げ、保守強硬派の現大統領アフマディネジャドが台頭することになった要因すら明らかにしているといえる。
ファルハディ監督が関心を持っているのは、ごく普通の中流階級のなかに巣くう偏見だ。登場人物たちは、エリのことを深く知ろうとはせず、見かけだけで一方的に自分たちと同類だと判断し、快く迎え入れる。それは裏を返せば、見かけだけで判断され、彼らのような中流階級から排除される人々が存在することを意味する。そんな偏見が積み重なれば、対立の原因となるような境界が生まれる。 |