バフマン・ゴバディ・インタビュー
Interview with Bahman Ghobadi


2010年7月
ペルシャ猫を誰も知らない/No One Knows About Persian Cats――2009年/イラン/カラー/106分/HD→35mm/シネマスコープ/ドルビー
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(初出:「キネマ旬報」2010年8月下旬号、若干の加筆)
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政府によって歪められたイランのミュージシャン、
そして大都市テヘランの本当の姿を見せたかった
――『ペルシャ猫を誰も知らない』(2009)

 

■■友人は言った、「イラン映画は死んでいる」■■

 イランでは1979年のイスラム革命以来、イスラム化政策が推し進められ、映画の製作も厳しく規制されるようになった。但しずっと冬の時代が続いていたわけではない。文化指導相時代から検閲に寛容だったハタミ大統領の時代には、希望も見られた。しかし、2005年に保守強硬派のアフマディネジャドが大統領に就任してから、規制が再び強化された。イランのクルド人であるバフマン・ゴバディ監督は、映画をめぐるそうした環境の変化をどのように見ているのだろうか。

「イスラム革命が起こって30年以上が経ちますが、ラフサンジャニ大統領でも、ハタミ大統領でも、私が認めていないので名前も言いたくない現在の大統領の時代でも、個人的にはほとんど変わりありません。確かにハタミ大統領の時代には少しは緩和されましたが、それでも検閲されたり、許可が出ないことがありました。革命後はずっと、私のような映画監督や他の芸術家に対して非常に厳しい姿勢をとり、非人間的な扱いをしてきて、現大統領になってさらに厳しくなりました。時々イランの友人たちに電話をして、映画をめぐる状況を尋ねるんですが、イラン映画は死んでいるという答えが返ってくるので、残念な気持ちでいっぱいです」

 ゴバディ監督はイランの現状に絶望しているが、彼が新作『ペルシャ猫を誰も知らない』を作り上げるまでの経緯を知れば、それも頷けることだろう。

「この新作の前に『Half Moon』(06/日本未公開)という映画を作ったんですが、許可がなかなか下りず、テヘランから(ロケ地の)クルディスタンに向かう途中で文化指導省から連絡があり、クルド語ではなくペルシャ語でなければ認められないと言われ、とても落ち込みました。クルドもイランのなかの一つの民族なのに、なぜクルド語ではだめなのか。そんなこともあり、結局この映画はイランでは許可されず、上映もできません。その次に企画したのが『私についての60秒』という映画で、二年以上かけて許可を取ろうとしたのですが、だめでした。絶望した私は、許可を取るのを諦め、この新作を無許可で撮影しました。そのため、イランの情勢が変わらないかぎり、帰国することはできません」


◆profile◆

バフマン・ゴバディ
1968年2月1日、イラン・イラク国境近くのクルディスタンの町、バネーに生まれる。88年からラジオ局で働きながら、自主映画製作グループに加わり、短編映画の製作に参加する。92年にテヘランに移り、93年からイラン放送学校で映画製作を学ぶ。しかし学校には最後まで通えず、むしろ当時働いていたデイケア・センターで子どもたちを撮影したり、主に友人らを題材に10本以上の短編を製作することで技術を磨いていった。その短編作品は国内外の映画祭で上映され、クルド山岳地帯で撮影した「Life in Fog(霧の中の人生)」(1999)はクレルモンフェラン映画祭で審査員特別賞を受賞している。またクルド地方で撮影したアッバス・キアロスタミ監督の『風が吹くまま』(99)ではチーフ助監督を務め、サミラ・マフマルバフ監督の『ブラックボード 背負う人』(2000)では主演俳優の一人として出演した。初の長編監督作は、イラン映画史上初のクルド語長編映画となった『酔っぱらった馬の時間』(2000)で、カンヌ国際映画祭(監督週間)部門に選ばれ、カメラドール(新人監督賞)と国際批評家連盟賞をダブル受賞。続く長編第2作『わが故郷の歌』(2002)もカンヌ国際映画祭(ある視点)部門に出品。ふたたび高い評価を得た。2003年、イラク戦争終結後のイラクに入り、ドキュメンタリー『War is over?!...』を製作。長編3作目となる『亀も空を飛ぶ』(2004)をイラク領クルド人自治区で撮影し、現代の叙事詩といえるスケールで世界を圧倒、サンセバスチャン国際映画祭グランプリをはじめ数々の賞に輝き、米アカデミー賞外国語映画賞のイラン代表にも選ばれた。長編第4作目の『Half Moon(半月)』(2006)はイラクのクルド人自治区でコンサートを開くため、イラン側から国境を越えようとする音楽家達のロードムービー。本作を最後にイランを離れ、現在、海外に居住。
『ペルシャ猫を誰も知らない』プレスより引用


 『ペルシャ猫を誰も知らない』でまず注目すべきなのは、その舞台だろう。これまで故郷のクルディスタンで映画を作り続けてきたゴバディ監督は、この新作で大都市テヘランを舞台に選び、ゲリラ撮影を敢行した。

「私はクルド人なので、クルド人が抱えている問題、彼らが受けている差別や偏見を映画にしてきました。クルディスタンの町や村の経済状況があまりにも酷いということを伝えるのが主な目的でした。私がテヘランに目を向けたのは、この大都市の本当の姿を見せたかったからです。そのために最初に企画したのが『私についての60秒』だったのです。これはある作家の一生を描く映画で、彼は最後に死刑を宣告されます。イランではいまだに作家や芸術家が処刑されるということを伝えたかった。しかし、そのシナリオでは許可を得られないので、本当のことを隠し、作家を泥棒に変えて文化指導省に提出したのですが、結局だめでした。そこで、まったく違うかたちでテヘランを描くことにしたのです」

■■バンドの演奏場面だけでなく、テヘランの状況を伝える映像を■■

 『ペルシャ猫を誰も知らない』が誕生するきっかけは、音楽好きのゴバディ監督がテヘランの録音スタジオで無許可で歌をレコーディングしているときに、アンダーグラウンドで活動するミュージシャンたちと出会ったことだった。

「そういうミュージシャンたちがいることは知っていましたが、それまで実際に会って、話をしたことはありませんでした。私を含めた普通のイラン人は、政府によって彼らが背教者や悪魔崇拝者、薬物中毒者であるかのようなでたらめなイメージを植え付けられ、人間扱いしていませんでした。彼らと関わりたくないと思うように洗脳されていたのです。以前から音楽活動をしたいと思っていた私は、たまたま彼らと知り合い、これまで自分が思い描いていたイメージと実際の彼らがまったく違うことに大きなショックを受けました。そして、彼らがどのような活動をしているのか興味を持ち、彼らの本当の姿を見せるためにこの映画を作りました。ここに描かれているのは、実際にあった出来事です」

 映画の主人公は、実際にテイク・イット・イージー・ホスピタル≠ニいうユニット名で活動するアシュカンとネガルだ。無許可で演奏したために逮捕された彼らは、バンドのメンバーを探して最後のコンサートを開き、音楽活動のために国外に出ようとする(彼らは撮影後にイランを離れ、現在はロンドンで活動している)。この映画では、主人公がメンバーを探す展開を通して、インディ・ロック、フュージョン、ブルース、メタル、ラップなど様々なジャンルのバンドが登場し、彼らの音楽の豊かさには驚きを覚える。=====>2ページに続く

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