しかし、ここで注意しなければならないことがある。私たちは、音楽や音楽活動を規制する当局と自由を求めるミュージシャンの関係を、「イスラム」と「西洋」、「伝統」と「近代化」という単純な対立の図式に押し込んでしまいがちだが、それは正しくない。ゴバディ監督は、音楽をもっと深く掘り下げ、独自の表現を生み出している。
「この映画を作る前に、音楽と関わりを持つ様々な映画を観ていて、これまでのものとは違った作品にしたいと思いました。これは、一つのバンドについての物語ではなく、ジャンルが違うたくさんのバンドが登場します。普通はそこで彼らの演奏場面を挿入するものですが、私は音楽と演奏場面とは違う映像の組み合わせを考えました。彼らの曲や歌詞を聴き込み、使いたい曲をセレクトし、それぞれの歌詞と結びつくような映像を考え、テヘランがどういう状況なのかを描き出そうとしました」
■■限られた時間、17日間で撮影することがとにかく厳しかった■■
そんな独自の表現が意味するものを明確にするためには、「イラン」とは何かを確認しておく必要があるだろう。そこで参考になるのが、アメリカで活動するイラン生まれの批評家ハミッド・ダバシが書いた『イラン、背反する民の歴史』だ。彼は歴史を検証して、イランがもともと多様な宗教、民族、思想から成り立っていたことを明らかにした上で、以下のように問題点を指摘する。
「「イラン」とは単一文化である、という認識を無理に当てはめ、枝分かれした数々の特性が亜国家的、多文化的、多民族的、多面的、混合主義的、異種交配的な融合を果たしたという、事実に基づいた証拠と対立させる」
『ペルシャ猫を誰も知らない』に登場するミュージシャンたちは、決して西洋音楽ばかりに傾倒しているわけではなく、イランの伝統音楽、伝統楽器、ペルシャ語の歌詞などを使って、多文化的な音楽を生み出している。
そして、そのなかでも音楽と映像が特に印象に残るのが、イランを離れてニューヨークで活動する女性シンガー、ラナ・ファルハンが、幻想のように(彼女の顔は映らない)登場する場面だ。彼女の音楽では、ブルースやジャズの要素とルーミーやハーフィズの古典詩を取り入れた歌詞が融合している。彼女のホームページ“Rana Farhan - Persian Blues Singer - Home”には、ゴバディ監督のこんな言葉が引用されている。
「ラナは現代のイラン音楽のなかで重要な位置を占めている。糸を通した針のように、ラナは音楽で東洋と西洋を縫い合わせてみせる」
この映画では、そんな彼女の歌と現代のテヘランを生きる様々な女性たちの映像を結び付け、単一文化という認識に揺さぶりをかける。ところがゴバディ監督自身は、この音楽と映像による試みに不満があるらしい。
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