セールスマン
Forushande / The Salesman


2016年/イラン=フランス/ペルシャ語/カラー/124分/ヴィスタ/

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(初出:『セールスマン』劇場用パンフレット)

 

他者の視線と見えない女

 

[ストーリー] 教師のエマッドは妻ラナとともに小さな劇団に所属し、上演を間近に控えたアーサー・ミラー原作の舞台「セールスマンの死」の稽古に忙しい。思いがけないことで住む家を失った夫婦は、劇団仲間が紹介してくれたアパートに移り住むことにする。

 慌ただしく引っ越し作業を終え、「セールスマンの死」の初日を迎えた夜、事件が起こった。ひと足早く劇場から帰宅したラナが侵入者に襲われたのだ。この事件以来、夫婦の生活は一変した。包帯を巻いた痛々しい姿で帰宅したラナは精神的にもダメージを負い、めっきり口数が少なくなった。一方、エマッドは犯人を捕まえるために「警察に行こう」とラナを説得するが、表沙汰にしたくない彼女は頑なに拒み続ける。

 立ち直れないラナと、やり場のない苛立ちを募らせるエマッドの感情はすれ違い、夫婦仲は険悪になっていった。そして犯人は前の住人だった女性と関係がある人物だと確証をつかんだエマッドは、自力で捜し出すことを決意するのだが――。

[以下、本作のレビューになります]

 イランの異才アスガー・ファルハディの作品は、計算しつくされた設計に基づく建築物を思わせる。ファルハディは、そんな連想をさせるほど緻密な脚本と演出によって、主人公たちの心の奥に潜み、普段は意識することもない感情を炙り出していく。その話術には共通点がある。ある事件が起こり、そこから波紋が広がり、主人公たちはいつしか後戻りできない状況に陥っている。

 新作の『セールスマン』は、これまで以上に複雑な構造を持つ建築物といえる。その構造を言葉で正確に表現するのは容易ではないが、ここでは3つのポイントからその狙いを探ってみたい。

 最初に注目したいのは、物語にちりばめられた勘違いやボタンの掛け違いだ。まず事件そのものが勘違いに起因している。ラナは、インターホンが鳴ったときにエマッドだと思い込み、ドアを開けておいた。訪ねてきた男も、前の住人が引っ越したことを知らなかった。ラナは事件が表沙汰になることを望まず、穏便に済まそうとするが、意に反して波紋が広がっていく。

 問題になるのは、前の住人の素性を知らされていなかったことだ。そこでエマッドは、アパートを紹介したババクに、事情を説明することもなく、なぜ黙っていたのかを問い詰める。後でエマッドの隣人から事件のことを聞かされたババクは、口止めされているわけではないので劇団員たちにそれを伝えてしまう。また、エマッドが引き出しにしまった侵入者の金を、ラナが知らずに使い、料理として食卓に上っていたことも、彼の感情を逆なですることになる。

 次に、他者の視線が強調されているところが、これまでの作品とは違う。エマッドとラナは小さな劇団に属しているため、他者の視線に晒されることには慣れている。だからラナは、事件後すぐに舞台に立つが、自分を見つめる観客の視線に怯え、取り乱してしまう。だが、心理面で他者の視線からより大きな影響を受けているのは、むしろエマッドの方だ。映画に挿入される彼の授業の場面は、そんな影響を物語る。隣人に噂され、ババクとの関係が悪化するなかで、自分が晒し者にされているような強迫観念にとらわれていくエマッドは、生徒の悪戯にも怒りを抑えられなくなっている。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   アスガー・ファルハディ
Asghar Farhadi
撮影監督 ホセイン・ジャファリアン
Hossein Jafarian
編集 ハイデー・サフィヤリ
Hayedeh Safiyari
音楽 サッタル・オラキ
Sattar Oraki
 
◆キャスト◆
 
エマッド   シャハブ・ホセイニ
Shahab Hosseini
ラナ タラネ・アリドゥスティ
Taraneh Alidousti
ババク ババク・カリミ
Babak Karimi
ファリド・サッジャディホセイニ
Farid Sajjadi Hosseini
サナム ミナ・サダティ
Mina Sadati
キャティ マラル・バニアダム
Maral Bani Adam
シヤワシュ メーディ・クシュキ
Nehdi Koushki
-
(配給:スターサンズ/ドマ)
 

 しかし、この映画で最も重要な位置を占めているのは、前の住人の存在であり、それが3つ目のポイントになる。ファルハディは、演劇で磨かれた感性も生かし、前の住人を登場させないことで、不在から様々な意味を引き出し、私たちの想像力をかきたてる。物語にちりばめられた手がかりを結びつけていくと、特に興味深く思えてくるのが、前の住人とババク、及び侵入者との関係だ。

 たとえば、こんな想像ができる。ババクは前の住人にもそのアパートを紹介したが、隣人たちから苦情が出たため、彼女が出ていくように仕向けるしかなかった。だが、彼女は私物を残したままにし、電話にも出なくなった。一方、侵入者の告白もそんなやりとりと符合するところがある。この男はひと月ほど前に彼女から頼みたいことがあるといわれたが、病気で行けなかった。それ以来、彼女は電話に出なくなった。

 つまり、ババクと侵入者は前の住人と同じような関係にあり、それを隠している。強迫観念にとらわれたエマッドは、なんとしても犯人を捜し出すために前の住人の私物を漁り、彼女とババクの関係を察する。しかし、正面から問いただすようなことはせず、舞台でネズミ呼ばわりして屈辱する。さらに、侵入者にも屈辱の苦しみを味あわせようとする。

 だが、前の住人を登場させないことの効果はそれだけではない。ここで思い出さなければならないのは、事件が起こる以前に挿入される「セールスマンの死」のリハーサルだ。

 ファルハディはなぜ、セールスマンとその息子の前に、浴室に隠れていた女が現れる場面を選んだのか。それは、エマッドが侵入者に味あわせようとする屈辱を予示しているし、エマッド自身が感じることになる屈辱を象徴していると見ることもできる。では、なぜ娼婦役のサナムが怒って、子供を連れて出て行くのか。その中断が、イランにおける厳しい検閲を揶揄していることは確かだが、果たしてそれだけだろうか。

 筆者には、この一連の流れが別の意味を持っているように思える。息子役が笑ってしまうのは、サナムがコートを着て裸の女を演じているからだが、彼女が違うとらえ方をしていることは、「娼婦の役だからって無礼な態度を」という憤慨の言葉によく表れている。彼女はそもそも娼婦を演じることに抵抗があり、ナーバスになっているため、笑いに敏感に反応するのだ。

 ファルハディはこの場面で、娼婦という存在と娼婦に対する他者の視線を印象づけ、娼婦を演じるサナムと映画に登場しない前の住人を巧みに結びつけていく。その結果、前の住人の別な側面が際立つことになる。なぜなら彼女は、サナムと同じように子供を持つ母親でもあるからだ。だが、エマッドや隣人にとって、彼女は娼婦であり、別な側面は目に入らない。もしエマッドが、少しでも子供を養う母親の姿を想像できれば、強迫観念にとらわれ、自分を見失うこともなかっただろう。

 そして最後に、この映画の導入部とラストが、同じ建物を舞台にしていることにも注目しておきたい。冒頭で建物が倒壊の危機に瀕したとき、エマッドは身体の不自由な隣人を背負って助け出す。しかしラストでは、心臓病を抱える老人を死の淵に追いやる。他者の視線を恐れ、表面的な関係を基盤とする共同体では、ひとつの亀裂が負の連鎖を引き起こし、人の運命を変えてしまう。基盤が本当に揺らいでいるのは、建物ではなく共同体なのだ。

※ニューズウィーク日本版の筆者コラムでも、異なる切り口で本作を取り上げています。その記事がお読みになりたい方は以下のリンクからどうぞ。

イランを生きる男女の深層心理を炙り出すアカデミー賞受賞作『セールスマン』

《参照/引用文献》
『イラン、背反する民の歴史』 ハミッド・ダバシ●
田村美佐子・青柳伸子訳(作品社、2008年)

(upload:2017/12/03)
 
 
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