しかし、この映画で最も重要な位置を占めているのは、前の住人の存在であり、それが3つ目のポイントになる。ファルハディは、演劇で磨かれた感性も生かし、前の住人を登場させないことで、不在から様々な意味を引き出し、私たちの想像力をかきたてる。物語にちりばめられた手がかりを結びつけていくと、特に興味深く思えてくるのが、前の住人とババク、及び侵入者との関係だ。
たとえば、こんな想像ができる。ババクは前の住人にもそのアパートを紹介したが、隣人たちから苦情が出たため、彼女が出ていくように仕向けるしかなかった。だが、彼女は私物を残したままにし、電話にも出なくなった。一方、侵入者の告白もそんなやりとりと符合するところがある。この男はひと月ほど前に彼女から頼みたいことがあるといわれたが、病気で行けなかった。それ以来、彼女は電話に出なくなった。
つまり、ババクと侵入者は前の住人と同じような関係にあり、それを隠している。強迫観念にとらわれたエマッドは、なんとしても犯人を捜し出すために前の住人の私物を漁り、彼女とババクの関係を察する。しかし、正面から問いただすようなことはせず、舞台でネズミ呼ばわりして屈辱する。さらに、侵入者にも屈辱の苦しみを味あわせようとする。
だが、前の住人を登場させないことの効果はそれだけではない。ここで思い出さなければならないのは、事件が起こる以前に挿入される「セールスマンの死」のリハーサルだ。
ファルハディはなぜ、セールスマンとその息子の前に、浴室に隠れていた女が現れる場面を選んだのか。それは、エマッドが侵入者に味あわせようとする屈辱を予示しているし、エマッド自身が感じることになる屈辱を象徴していると見ることもできる。では、なぜ娼婦役のサナムが怒って、子供を連れて出て行くのか。その中断が、イランにおける厳しい検閲を揶揄していることは確かだが、果たしてそれだけだろうか。
筆者には、この一連の流れが別の意味を持っているように思える。息子役が笑ってしまうのは、サナムがコートを着て裸の女を演じているからだが、彼女が違うとらえ方をしていることは、「娼婦の役だからって無礼な態度を」という憤慨の言葉によく表れている。彼女はそもそも娼婦を演じることに抵抗があり、ナーバスになっているため、笑いに敏感に反応するのだ。
ファルハディはこの場面で、娼婦という存在と娼婦に対する他者の視線を印象づけ、娼婦を演じるサナムと映画に登場しない前の住人を巧みに結びつけていく。その結果、前の住人の別な側面が際立つことになる。なぜなら彼女は、サナムと同じように子供を持つ母親でもあるからだ。だが、エマッドや隣人にとって、彼女は娼婦であり、別な側面は目に入らない。もしエマッドが、少しでも子供を養う母親の姿を想像できれば、強迫観念にとらわれ、自分を見失うこともなかっただろう。
そして最後に、この映画の導入部とラストが、同じ建物を舞台にしていることにも注目しておきたい。冒頭で建物が倒壊の危機に瀕したとき、エマッドは身体の不自由な隣人を背負って助け出す。しかしラストでは、心臓病を抱える老人を死の淵に追いやる。他者の視線を恐れ、表面的な関係を基盤とする共同体では、ひとつの亀裂が負の連鎖を引き起こし、人の運命を変えてしまう。基盤が本当に揺らいでいるのは、建物ではなく共同体なのだ。
※ニューズウィーク日本版の筆者コラムでも、異なる切り口で本作を取り上げています。その記事がお読みになりたい方は以下のリンクからどうぞ。
● イランを生きる男女の深層心理を炙り出すアカデミー賞受賞作『セールスマン』 |