20世紀を通して大きな発展を遂げていく新世界アメリカと大戦の舞台にもなる旧世界ヨーロッパ。そんなふたつの世界を舞台にした映画では、ドラマの背景からその力関係の変化が様々なかたちで浮かび上がってくる。
たとえば、ヘンリー・ジェイムズの長編『金色の盃』を映画化したジェームズ・アイヴォリー監督の『金色の嘘』とサリー・ポッター監督の『耳に残るは君の歌声』という2本の映画は、どちらもほとんどヨーロッパを舞台に物語が展開し、アメリカが出てくるのは終盤のわずかな時間に過ぎない。しかし、ドラマの鍵を握るのはヨーロッパとアメリカの力関係といえる。
『金色の嘘』の主な舞台は20世紀初頭のロンドン。聡明だが貧しいアメリカ人女性シャーロットと没落したイタリア人貴族のアメリーゴ公爵は、かつて恋人同士だったが、経済的な事情で別れることを余儀なくされた。
そんな公爵は“アメリカで最初の億万長者”といわれるアダム・ヴァーヴァーの愛娘マギーと結婚する。だが、どうしても公爵が忘れられないシャーロットは、マギーと親友同士であることを利用して公爵につきまとい、やがてヴァーヴァーから求婚される。義母と娘婿となったふたりの心は再び接近し、4人の関係からは様々な嘘が浮かび上がることになる。
公爵は黄昏のヨーロッパを象徴している。ヴァーヴァーは、祖国の労働者たちのおかげで得た財産を美術品につぎ込み、故郷の街アメリカン・シティに美術館を建て、ヨーロッパ文化を紹介する計画を進めている。しかしシャーロットは、労働者に文化が理解できるはずがないと考える。
彼らの関係には個人的な感情だけではなく、そんなふたつの世界への錯綜する想いや時代の転換点が反映されている。
『耳に残るは君の歌声』は、1927年、ロシアの貧しいユダヤ人の村で、父親と娘の別れの場面から始まる。ユダヤ人に対する迫害が激しさを増すなか、父親はアメリカに向かって旅立つ。財を成して娘を呼び寄せるためだ。
しかし間もなく村は暴徒に焼き払われ、娘は父親と再会するために故郷を離れる。そして長く波乱に満ちた旅がはじまる。彼女は混乱のなかでイギリスに渡ってしまい、成長してパリでコーラス・ガールになり、ロシア人のダンサー、イタリア人のオペラ歌手、白馬にまたがるジプシーとの出会いと別れを経て、戦火が迫るパリからついにアメリカに渡る。
迫害される民族を見つめ、歌と音楽、そして舞台に立つ者たちの姿を通して歴史を浮き彫りにするアプローチには、ユダヤ人で、マルチなクリエーターであるポッターならではの感性が発揮されている。この映画から浮かび上がるアメリカは、単にヒロインの父親が暮らしている場所ではない。
アメリカは第一次大戦後、ナショナリズムを背景に移民の数を出身国によって制限する法律を作り、何十年も移民に制約を課しつづけた。ポッターはその事実を短い台詞に盛り込んでいるだけだが、ヒロインの長い道のりは父親に会うために避けることができない手続きだったともいえる。さらにその旅は、英語に対する外国語と訛った英語に満ち溢れ、排他的なアメリカとは違う、もうひとつのアメリカを垣間見ることもできるだろう。
一方、ジョン・キャメロン・ミッチェル監督の『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』では、冷戦と冷戦以後を背景としたヨーロッパとアメリカの関係が鍵を握る。
東ベルリンで、アメリカに渡ってロックスターになることを夢見ていた少年は、米兵と結婚して自由を手にするため、性転換手術を受けるが、不手際から股間に“怒りの1インチ”が残ってしまう。そしてアメリカに渡り、ヘドウィグとなった彼女に、さらに悲劇が襲いかかる。ベルリンの壁は崩れ、恋人のトミーには曲を盗まれ、彼だけがスターになってしまう。
強烈なウェーブのかかったウィッグとけばけばしい衣装で武装し、自らが背負った宿命を切々と、あるいは辛辣に歌い上げるヘドウィグ。彼女の存在とパフォーマンスは、単純化されたセクシュアリティに揺さぶりをかけるだけではない。
人々は冷戦以後の新しい世界に期待を持っていたはずだが、実質的に壁を壊したのは自由主義経済の力であり、いまではアメリカを中心としたグローバリズムによる画一化が進んでいるに過ぎない。そういう意味では、肉体に冷戦の傷を抱えた彼女の戦いは、ポスト冷戦時代の閉塞状況にも揺さぶりをかけることになる。
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