これまで人間は、異物と接することで免疫や抗体を生み出してきた。ところが現代では、抗菌や除菌という言葉に洗脳され、見えないものをすべて害悪と決め付け、排除しようとしている。掃除婦はまた、ウイルスにも言及するが、最近の研究では、ウイルスが人類の進化に重要な役割を果たしてきたことが明らかになっている。
そして、この痛烈な批判は、違和感なく西洋とイスラムの関係やグローバリゼーションへと押し広げられていく。自分たちには理解できない宗教や文化に対して先入観を持ち、排除しようとしたり、統一的な経済原理で世界を覆い尽くすために、異なる原理を一方的に排除しようとすることは、見えないものを排除することと何ら変わりないからだ。そんな繋がりが見えると、“彼女”が置かれている状況も明確になることだろう。
掃除婦という存在に注目してみると、“彼女”の家だけでなく、“彼女”が働く研究所と叔母が入院する病院でも、彼女たちにスポットが当てられることがわかる。ということは、“彼女”は日常のなかで、研究所や病院という環境と同じように、見えないものを排除し、隔絶されていることになる。それは“彼女”が、グローバリゼーションに取り込まれ、身動きができなくなっていることを意味してもいるのだ。
さらにもうひとつ、背景のイメージだけで、“彼女”と“彼”、そして夫の立場が見事に明確になる場面がある。それは、“彼”が仕事を首になった後で、“彼女”と連絡をとる場面だ。そこでは、この3人の姿が交互に映し出される。夫は家でB・B・キングの音楽に酔いしれている。清潔な環境に囚われた彼は、そうすることで一時だけ理想に燃えていた自分を取り戻す。“彼女”は、カバーがかけられた顕微鏡が並ぶ研究室にいて、“彼”は、ゴミ袋が積み上げられた裏通りにいる。文化や社会的な地位、性別などで隔てられた彼らは、対照的な空間に封じ込められているのだ。
そして、叔母の死によって何かに目覚めた“彼女”は、叔母が憧れながら、訪れることができなかったキューバへと旅立つ。監督のポッターが、そんなドラマを通して、キューバをいたずらに美化したり、滅びゆく共産主義に対する感傷に浸っているような印象を持つ人もいるかと思うが、それは大きな間違いだ。
この映画の原題は“Yes”で、映画はその“Yes”で終わるのだが、それは、20世紀を代表するジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の最後を飾る言葉でもある。そして、この最後の言葉“Yes”から映画を振り返ってみると、ポッターがいかにこの小説を意識していたのかがよくわかる。
『ユリシーズ』の主人公は、作家を志す青年スティーヴン、新聞の広告を取る外交員ブルームとその妻モリーの3人で、ダブリンにおけるたった1日(1904年6月16日)の出来事が描かれる。その物語には、この映画と同じようにヒロイン、モリーの不義がある。だが、重要なのは、そんな物語の具体的な共通点ではない。
たとえば、この小説では、食事や排泄といった日常の些末な行為から、アイルランドとイギリスの関係といった歴史や情勢までが、ひとつの世界を形作り、人間の営みが多面的にとらえられている。さらに、この小説が、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きに、文学史を横断する文体の饗宴を見せるように、この映画でも、韻文で書かれた台詞、ビデオや監視カメラの映像、音楽やダンスまで、多様な表現が駆使されている。
しかし、最も重要なのは、ジョイスが小説に描き出した意識の流れやモノローグを、ポッターが映画で試みていることだ。『ユリシーズ』は、“Yes”で始まり“Yes”で終わるとてつもなく長いモリーのモノローグが最終挿話となる。この映画には、ベッドに横たわる叔母、家のなかを磨き上げる掃除婦、キューバでビデオカメラと向き合う“彼女”の素晴らしいモノローグがある。そして、孤立していた“彼女”は、叔母や掃除婦のモノローグを引き受け、共有していく。
この映画のキューバとは、死者の言葉のなかにある異界であり、また、いまだグローバリゼーションに侵蝕されていない領域を象徴する場所であり、“彼女”はそんな空間のなかで再生を果たす。つまり、映画の最後の言葉は、“彼女”と“彼”の間に生まれる肯定の“Yes”であるだけでなく、叔母や掃除婦とひとつになった“彼女”が、見えないものも含めた世界を肯定する“Yes”でもあるのだ。 |