先端科学の成果が文学を刺激する
――『脳のなかの幽霊』、『考える…』、『素粒子』をめぐって


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(初出:「Paperback」)

 神経科学者V・S・ラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』では、著者が実際に出会った患者たちや過去の様々な症例を手がかりに、多くの謎を秘めた脳のメカニズムが少しずつ解き明かされていく。

 たとえば、これはたいへん気の毒なエピソードだが、難治性のてんかんのために左右の脳から病気の組織を除去する手術を受けた患者が、手術前の出来事はすべて思い出せるのに、新しい記憶を形成できなくなってしまった。映画『メメント』の主人公を思い出させるような話だが、この手術で切除された部位のなかには海馬と呼ばれる小さな組織が含まれていて、それが新しい記憶痕跡を脳に定着させるのに不可欠であることが判明する。

 あるいは、側頭葉てんかんの患者が宗教的な恍惚を体験したり、神が語りかけてきたと主張することが手がかりとなって、人間の脳には宗教的な体験に関与する回路があることがわかってくる。

 こうした研究が着実に成果をあげるに従って、これまで哲学の領域とみなされてきた問題に科学的な解答が準備されつつある。今世紀は、意識という脳をめぐる大きな謎が解き明かされる世紀になると著者は予測する。なぜニューロンの集合の活動が意識体験となり、主観的な世界の感覚を生み出すことができるのか、ということだ。

 そんなふうにより現実的な次元で哲学に科学が拮抗することになれば、SFではない純文学もそれを無視してばかりはいられないだろう。というよりも意識に対する科学的な視点は、文学に興味深い刺激をもたらすのではないか。なぜなら意識は言葉と結びつきがあるからだ。

 本書には著者が意識の謎をこんなふうに表現しているところがある。「なぜ森羅万象の記述は、つねに二つ――一人称の記述(「私は赤を見ている」)」と、三人称の記述(「彼は、彼の脳のある経路が六〇〇ナノメートルの波長に遭遇したとき、赤を見ていると言う」)――が並列しているのだろうか?

 科学者の客観的な世界観に従えば三人称の記述だけが実在だが、一人称の記述はもちろん実在する。この並列する二つの記述の隔たりに作家が関心を抱き、作品に反映しても不思議はないだろう。

 
《データ》
『脳のなかの幽霊』V・S・ラマチャンドラン、
サンドラ・ブレイクスリー●
山下篤子訳(角川書店、1999年)
『考える…』デイヴィッド・ロッジ●
高儀進訳(白水社、2001年)
『素粒子』ミシェル・ウエルベック●
野崎歓訳(筑摩書房、2001年)
 
 
 
 

 イギリス人作家デイヴィッド・ロッジの新作『考える…』は、意識をめぐるそんな科学的・哲学的議論に著者が関心を持ったことが作品の出発点になっている。巻末の謝辞には、著者がこの小説を書く準備として読んだ本が列記され、そのなかにはラマチャンドランの著作も含まれている。

 この物語では、イングランド南西部の田園地帯にある架空の大学を舞台に、主人公の男女が恋に落ちる。男はアメリカ人で、大学にある認知科学センターの教授で所長のラルフ。認知科学の第一人者である彼は、心はコンピュータのようなものであり、人間の意識や感情はやがてはコンピュータによって解明されると考えている。また彼は、「男は、できるだけ大勢の女と、できるだけ何度もセックスをしたがるように作られている」と信じ、妻に隠れて浮気に精を出している。

 女はイギリス人で、一学期だけ大学院の英文科創作コースの代講になった作家のヘレン。ヘンリー・ジェイムズを敬愛する彼女は、意識や感情を表現できるのは文学だけだというプライドを持ち、夫に先立たれた後も彼の記憶にとらわれている。

 彼らは恋愛を通して、対極の立場から意識をめぐる議論を繰り広げることになる。当然、客観的な記述も顔を出す。たとえばラルフは“悲哀”をこう定義する、「死という出来事に反応する愛着構造に起因する、否定的に誘発された不安状態の生起によって特徴づけられた認知再組織化の長期過程」。また、ラルフは人間が行う目的を持たない思考をどのようにコンピュータの基本構造に取り込むかという課題を克服するため、日々の雑多な思考を記録し、ヘレンの方も日記をつけているため、お互いに相手には窺い知ることができない個人の意識も浮き彫りにされていく。

 ふたりは男女の駆け引きのなかで、驚くべき秘密を知ったショックや死の恐怖から、ともにこれまでの価値観が揺らぎ、それぞれに自分を見つめなおしていく。ロッジはこの小説で随所に科学的な視点を盛り込みながら、人間の意識や現代における文学や宗教の意味をユーモラスに検証しているのだ。

 これに対して、脳や意識に限定されない先端科学の視点をより大胆に取り込み、挑発的かつ破壊的なパワーで純文学から最終的にはSFの領域にまで踏みだしていくのが、フランス文学界で激しい賛否両論を巻き起こしたミシェル・ウエルベックの『素粒子』だ。

 この小説も、対極の価値観を象徴するふたりの主人公が登場するという点では『考える…』に通じるところがあるが、その価値観には戦後の歴史が反映され、より複雑な対照をなし、物語は限りなく辛辣で同時に悲痛でもある。

 主人公は、ブリュノとミシェルの異父兄弟だ。兄のブリュノは高校の文学教師で、子供の頃にあまりにも酷いいじめにあい、まるで文学的な絶望から逃れようとするかのようにセックスに囚われていく。女にもてない彼は、変質者といわれても仕方がない惨めな行為の数々で自分を慰め、些細なコンプレックスを克服するために絶望的な努力をつづける。

 一方、弟のミシェルは物理学を出発点に生物学へと進出し、世界を変える能力を秘めた天才的な科学者であり、愛もセックスもない孤独な生活を送り、世界を冷ややかな眼差しで見ている。

 この小説では彼らが成長する背景として、“アメリカに起源を持つセックス享受型大衆文化”がフランスに広がっていく過程が様々な角度から描きだされる。その文化では若さだけが特権化され、年をとることは悲惨以外のなにものでもない。ブリュノの人生はそんな社会を象徴し、ミシェルは兄のことを客観的な記述によってこう表現する。

ブリュノを一人の個人と考えることができるだろうか?内臓の腐敗は彼のものであり、肉体的衰えと死を、彼は一人の個人として知ることになるだろう。だがその快楽主義的人生観、そして意識と欲望を構造化する力の場は、彼のジェネレーションに固有のものだった。実験設備の設置および一つないし二つの観察可能量の選択によって、原子システムに一定の運動――粒子、あるいは波動の運動――を与えることができるのと同じように、ブリュノはひとりの個人とみなされうるとしても、別の視点に立つならば、ある歴史的展開の受動的要素にすぎないとも言えるのだった

 そしてミシェルは、第三次形而上学的変異の最も意識的で、最も明晰な推進者となっていく。“形而上学的変異”とは、大多数の人間に受け入れられている世界観の根本的、全般的な変化であり、過去にはキリスト教と近代科学の登場があった。彼が出した結論は、生殖から切り離されたセックスはナルシズム的な競争しか生まず、セクシュアリティは無駄で危険な退行的機能でしかないということだ。

 そこで彼は、量子論以後の物理学と遺伝子工学の先端技術を突き詰めることによって、新しい種族を生み出す。それは性別を持たない不死の種族なのである。


(upload:2013/01/16)
 
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