■■天上から地上、そして人間の内面に至る視点の変化■■
リドリー・スコットは、初監督作品の『デュエリスト』以来、『エイリアン』『ブレードランナー』へと、壮絶な肉体的闘争に深いこだわりを見せた。『エイリアン』で重要なのは、エイリアンに遭遇するのが輸送船の乗組員たちであることだ。そこには現実的な生活感があり、もちろん彼らは特別な武器も装備していない。それゆえ、恐怖に満ちたサバイバルのドラマと肉体的な闘争が浮かび上がってくるのだ。
しかし『エイリアン3』を監督したフィンチャーは、『エイリアン』に別な魅力を見出している。筆者が彼にインタビューしたとき、こんなことを語っていた「確かに『エイリアン3』の魅力は内的な葛藤にある。このシリーズの第1弾には癌のメタファーを思わせるところがあって、そういう意味では『エイリアン3』はAIDSのメタファーになっている」。つまり、エイリアンはウイルスとしてリプリーの体内に侵入し、
彼女はそのエイリアンに対して敵とは異なる感情すら抱く瞬間がある。そんなふうにしてこの映画では、彼女の内面が視覚化され、映画全体にも宗教的なイメージが色濃く漂うのだ。ちなみに『エイリアン4』は、彼女が肉体的な次元で内なるエイリアンと共生関係を築き上げていくという意味で、『エイリアン3』の精神性をより具体的なイメージとして表現した作品と見ることができる。
さらに、スコットの『ブレードランナー』とフィンチャーの『セブン』の対比も興味深い。前者にはブレードランナーとレプリカントの肉体的な闘争があるが、その闘争を通してデカードのなかでは、人間とレプリカントの境界が揺らいでいく。スコットは表現としては外的な闘争に徹するものの、そこには自ずと内面を志向するような時代の流れを感じとることができる。
これに対して、そのディテールを見れば『ブレードランナー』を意識していることが明らかな『セブン』のドラマについて、フィンチャーはこう語っている。「これは刑事ものに見えて、その本質は『エクソシスト』のようなホラー映画なんだ。だから刑事もののドラマでは割り切ることのできない恐怖がある種のカタルシスを導く」。そんな『セブン』の主人公はある意味で見えない敵に取りつかれ、
ラストでは第七の大罪という内なる敵との葛藤を強いられることになるのだ。
それではここで、キューブリックからスコット、フィンチャーへの流れを別な視点から検証してみよう。キューブリックはしばしば、非情で冷徹な神の視点≠ナ世界を描いた。『2001年宇宙の旅』でも、人間は神を思わせる存在が仕組んだモノリスに導かれるように、進化をとげていく。スコットの『エイリアン』や『ブレードランナー』では、神に近い支配的存在は資本主義のなかにある。
エイリアン・シリーズの大元にあるのは、最強の武器となるエイリアンを捕獲しようとする企業のマチズモ的な欲望に他ならない。そしてレプリカントを創造し、ピラミッドのような建物に君臨するタイレル社の社主は、自ら創造したレプリカントによって葬り去られる。
■■進化から取り残され、消費社会を生きる人間の内宇宙■■
フィンチャーは、そんな資本主義が支配する社会における人間の内面をさらに追求していく。『ゲーム』には、「私は盲目であったが今は見える」というヨハネの福音書の一節が暗示的に引用される。この盲人の話では、キリストと対立するパリサイ人たちが、キリストによって癒された盲人に対し、彼が罪人によって癒されたことを咎める。するとかつての盲人は、自分を癒した人が罪人かどうかはわからないが、
以前は盲目であったものがいまは見えると答える。トラウマを抱える『ゲーム』の主人公も、同じように壮大なゲームの体験によって癒される。ゲーム自体は企業が仕組んだものであるかもしれないが、とにかく結果的に彼は癒される。その企業の名前CRS(消費者娯楽サービス≠フ略)は、同時にキリスト(CHRIST)を連想させる。フィンチャーは企業が神となってしまう時代をある種のブラック・ユーモアとして描いているのだ。
『ゲーム』は、『エイリアン3』や『セブン』のように外的な闘争の構図が消失した時代に、ヴァーチャルな闘争の世界を構築する映画といえるが、それをさらに突き詰めたのが『ファイト・クラブ』だ。この映画には男たちの激しい殴り合いが描かれる。テレビや消費社会に操られ、自分を見失った男たちは、暴力と苦痛のなかで自分を再発見し、満たされる。
それは、日常のなかに彼らの生き甲斐となるような闘争や反抗の対象となるものがまったく存在しないことを物語る。しかしその殴り合いは、見えている通りのものではないことが次第に明らかになる。主人公ジャックは、まさしく内面に敵を抱え、不条理な葛藤は消費社会に対するテロにまでエスカレートしていくのである。
そして、フィンチャーとともに注目しておきたいのが、監督スパイク・ジョーンズと脚本家チャーリー・カウフマンだ。このコンビの作品『マルコヴィッチの穴』で筆者が最も印象的だったのは、映画の冒頭近くにエミリ・ディキンスンの巨大な操り人形が出てくるところだ。この十九世紀の女性詩人は、外部というフロンティアに対して、自己の内面に向かってフロンティア精神を発揮することを求めた。
さらには、自己という王国を外敵から守るのはたやすいが、己という内なる敵には無防備であるため、自己の意識を征服しなければならないと詠った。しかしマルコヴィッチにとって内なる敵はもはや己ではない。他人が勝手に押し入り、彼を征服しようとするからだ。
この穴≠奪い合う人々の姿は現代を象徴している。誰も内面など探求する気はない。肝心なのは自分がどう見えるかなのだ。彼らにとってこの俳優は、金儲けや刺激的なセックスなどの欲望を満たすための人形であり、絶対にマルコヴィッチである必要すらない。というよりも適当な人形さえあれば、目先の金や快楽以前に永遠の命すら夢ではなくなる。実際この映画には、肉体から肉体へと移り住み、
生き長らえる人々まで登場する。こうして人間は遺伝子を運ぶただの入れ物と化していくのである。
現代の先端で新しい映像を切り開く監督たちにとって、未来や宇宙は最後のフロンティア=外部の空間にあるのではなく、人間の内部にある。過酷な淘汰の果てにあるスターチャイルドへの進化から取り残され、人間を均質化する消費社会を生きるわれわれは、自我の境界すら危うくなりかけているからだ。 |