ミシェル・ウエルベックの小説の中でも、『素粒子』を映画化することは、『闘争領域の拡大』や『プラットフォーム』を映画化することとはわけが違う。この小説には、確かに異父兄弟の物語があるが、全体として見れば、物語よりもパースペクティヴやヴィジョンに近い。
兄弟は、現代の西欧社会の実相を対極の立場から浮き彫りにする象徴的な存在であり、その軌跡や営みは、戦後史、社会学、哲学、物理学など、多様な視点を交錯させながら、描き出されていく。
監督のオスカー・レーラーは、原作の兄弟から象徴性を拭い去り、残酷で苦渋に満ちているが、同時に美しくもある物語を抽出してみせる。セックスに囚われ、妻子に見離され、激しい屈辱を味わいながらも、女を求め続けてきた兄と、愛もセックスもない孤独を生き、遺伝子研究に専念してきた天才肌の弟。自己の欲望だけに忠実なヒッピーの母親に人生を翻弄された彼らは、貴重な時間を失い、中年となった。
そんな兄弟は、偶然の出会いや再会を契機に、過去を乗り越え、他者と世界を共有していこうとする。心のどこかで手遅れであることを知りながら、過酷な現実を受け入れていく男女の痛みと優しさには、心を揺さぶられる。
映画の結末は、原作のようにSF的な領域に踏み出すことはない。だが、ふたつの世界は共鳴している。原作の結末では、超越的な視点から人類がこのように表現される。
「責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである」
この映画の主人公たちは、たとえそれが幻想であっても、なお愛を信じようとするのだ。
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