サバービアの理想的な主婦像と表層や秩序に囚われたコミュニティ
――ウォーターズの『シリアル・ママ』とハミルトンの『A Map of the World』をめぐって


シリアル・ママ/Serial Mom――― 1994年/アメリカ/カラー/94分/ヴィスタ/ドルビーステレオ
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(初出:「骰子/DICE」No.08、1995年2月、Edge of the World08、若干の加筆)


 

 ジョン・ウォーターズ監督の新作『シリアル・ママ』(94)とアメリカの女性作家ジェーン・ハミルトンの話題の新作長編『A Map of the World』(94)。前者は、サバービアを舞台にした血みどろのブラック・コメディであり、後者は、都市近郊にぽつんと残る酪農場を家族の楽園にすることを夢見る一家の苦難を描く長編だ。

 ふたつの作品は、主人公や設定など、特に繋がりがあるようには見えないが、ある部分に注目してみると興味深い接点が浮かび上がる。どちらもサバービアの理想的な主婦像といえるものが鍵を握り、コミュニティや家族をめぐる危うい世界が描き出されているのだ。

■■建前と本音をめぐり住民が自分で自分の首を絞める不条理■■

 『シリアル・ママ』の主人公は、キャスリーン・ターナー扮する主婦ビヴァリーだ。彼女は、ボルティモアのサバービアで、歯科医の夫とふたりの子供たちと典型的な郊外の生活を営んでいる。いや、表面的にそう見えるだけであって、本当は典型的どころではない。

 潔癖で秩序が乱れることを許せない彼女は、ルールを守らない隣人たちに対する不満をつのらせる。そしてついには、ゴミを分別しなかったり、ショッピング・センターの駐車場で横入りしたり、レンタル・ビデオを巻き戻さないで返却する隣人たちを次々と血祭りにあげていく。

 彼女の秩序や美観に対するこだわりというか、執念には、明らかにサバービアの理想が反映されている。たとえば、郊外のコミュニティは、町の腐敗のもとになる歓楽の要素を排除するために土地利用規制法を利用したり、統一された景観を保つために建築の基準を作ったり、美観を害す電線の類を地中に埋めたり、場合によっては、ガレージや壁の色に制約を設けるなど、結束して秩序や美観の維持に努めている。もちろん、家のなかもピカピカにしていることだろう。

 皮肉な書き方をすれば、それは、表面がきれいであれば、そこに暮らす人間もきれいなのだと信じているような世界だ。しかし、理想は高く掲げたものの、人間にはやはり建前と本音がある。そうそうきれいごとばかりで生きていけるものではない。ウォーターズは、そんな世界に、住人たちの建前が作り上げたような“郊外の理想的な主婦”を登場させる。ということは、突き詰めれば、彼女によって血祭りにあげられる犠牲者たちは、自分で自分の首を絞めていることにもなる。

 この映画を観ながら筆者が思い出すのは、ロング・アイランドのサバービアを舞台にしたハル・ハートリー監督の『トラスト・ミー』だ。主人公マシューの父親は、極端な潔癖症で、息子と顔を合わせるたびにトイレ掃除を命じる。そして、もうひとりの主人公マリアが町で出会う中年女性は、家がいつも清潔であることが虚しくて、もっと汚れていればいいと思うことがあると語る。彼らもまた、自分で自分の首を絞めている。

 『シリアル・ママ』は、ビヴァリーを使って、そんな不条理を、不毛な日常における内的な苦痛や葛藤ではなく、連続殺人に具現化してしまう映画といっていいだろう。この映画のタイトルのシリアルには、朝食として食べられる“Cereal”と連続殺人鬼を意味する“Serial Killer ”がかけてあるのだが、これは単なる言葉遊びではないだろう。

 そして、建前と本音が生む不条理を通してサバービアを挑発するウォーターズの狙いは、ビヴァリーの裁判となる後半でより鮮明になる。これは決して、キャスリーン・ターナーの捨て身の怪演を楽しむだけの映画ではない。

 逮捕されたビヴァリーは裁判にかけられる。連続殺人の罪から逃れるには、精神異常を主張するしかないかに見えるが、彼女は、そうしようとする弁護士を解雇し、自分で弁護を開始する。こうして彼女の裁判は、証人席に座る彼女の隣人や警官と“郊外の理想的な主婦”のどちらが、陪審員たち心証に訴えることができるかを競うパフォーマンスの場となる。結局、ここでも証人たちは、郊外の建前のパワーに翻弄され、さらに自分の首を絞めていくことになるのである。

 それでは、この理想の権化であるビヴァリーが守る自分の家族とはどんなものなのか。彼らはまるで、家族をターゲットにしたCMでも見せられているかのように、曖昧で薄っぺらなイメージのなかを生きている。もしかすると、それが、この映画のいちばん怖いところかもしれない。

■■郊外の理想は家族が戻れる大地や自然を消し去っていく■■

 一方、ジェーン・ハミルトンの長編小説『A Map of the World』では、冒頭でも触れたように、アメリカ中西部のスモールタウンにぽつんと残された酪農場を購入し、家族の楽園を築こうとする一家が遭遇する苦難が描き出される。どうしてそんな作品が、郊外の家族や主婦と結びつくのかといえば、一家の酪農場の周囲は、宅地開発が進み、彼らがサバービアに包囲されているからなのだ。

 主人公であるアリスと夫のハワードは、6年前にこの酪農場を購入し、いまでは、ふたりの娘と4人で暮らしている。周囲の郊外のコミュニティは、彼らを、自分たちで農場がやれると思い込んでいるヒッピーとみなし、最初からまったく交際をしようとはしなかった。

 先ほど取り上げたのが『シリアル・ママ』だったから引用するわけではないが、たとえば、主人公夫婦と周囲の住人の関係は、アリスの視点を通してこんなふうに描かれている。

ときおり住人たちは、肥やしの臭いや機械の騒音のことで苦情をいってきた。彼らが朝食のシリアルにかける体にいい白い液体と、目と鼻の先でガタガタやったり、悪臭をだすハワードの仕事の関係がわかっている人はごくわずかのようだった

 この文章には、臭いものや汚いものを排除する郊外の潔癖症がよく出ているといえる。

 そんな孤立した状況のなかで、アリスには、様々なプレッシャーがかかってくる。酪農場の経営は決して楽なものではなく、彼女は、9月から6月までは、町の学校で保健師として働いていた。また、最近では、長女が癇癪を起こすようになり、育児に対しても自信を失いかけていた。そんな彼女の支えは、唯一付き合いのある隣人の一家で、同じようにふたりの幼い娘がいたため、母親同士が曜日を決めてお互いの娘たちを預かっていた。

 
《データ》
 
map of the world
●A Map of the World by Jane Hamilton
(Doubleday, 1994)
=============================
●『マップ・オブ・ザ・ワールド』
ジェーン・ハミルトン
紅葉誠一訳(講談社文庫、2001年)
 

―マップ・オブ・ザ・ワールド―

※スタッフ、キャストは
『マップ・オブ・ザ・ワールド』レビュー
を参照のこと

 

―シリアル・ママ―

 Serial Mom
(1994) on IMDb


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   ジョン・ウォーターズ
John Waters
撮影 ロバート・M・スティーヴンス
Robert M. Stevens
編集 ジャニス・ハンプトン、エリカ・ハギンズ
Janice Hampton, Erica Huggins
音楽 バジル・ポールデュリス
Basil Poledouris

◆キャスト◆

ビヴァリー・サトフィン   キャスリーン・ターナー
Kathleen Turner
ユージーン・サトフィン サム・ウォーターストン
Sam Waterston
ミスティ・サトフィン リッキー・レイク
Ricki Lake
チップ・サトフィン マシュー・リラード
Matthew Lillard
パイク刑事 スコット・モーガン
Scott Morgan
グレーシー刑事 ウォルト・マクファーソン
Walt MacPherson
スコッティ・バーンヒル ジャスティン・ウェイリン
Justin Whalin
ローズマリー・アッカーマン メアリー・ジョー・キャトレット
Mary Jo Catlett
バーディ パトリシア・デュノック
Patricia Dunnock
ドッティ・ヒンクル ミンク・ストール
Mink Stole
8番の陪審員 パトリシア・ハースト
Patricia Hearst
(配給:松竹富士)
 
 
 

 ところがある日、アリスは、ちょっと目をはなしたすきに、隣人の娘を農場の池で溺死させてしまう。そして、これはもちろん大きな悲劇ではあるのだが、このことがきっかけになって、一家は予想もしなかった事件に巻き込まれていくことになる。

 アリスは、学校で児童たちに性的虐待を加えた容疑で突然、逮捕されてしまうのである。郊外の母親たちが、子供の話を聞いて、警察に訴えたというのだ。こうして彼女は、法廷に引きだされることになるのだが、その法廷で彼女を追い詰めていこうとするものこそ、まさに“郊外の理想的な主婦”のイメージなのである。

 母親たちの先頭にたった主婦は、実用的なデニムの服を着て、息子を守るように膝に乗せて証人席に座り、ステーションワゴンでボーイスカウトの会合やベイク・セールへと闊達に動き回る“郊外の理想的な主婦”を演じる。法廷に立つこの主婦の立場は、『シリアル・ママ』のビヴァリーとは正反対ではあるが、彼女の存在からはやはり、どんな手段を使っても異分子をコミュニティから追い出そうとする郊外の建前が浮かび上がってくる。

 それでは、こちらの理想的な郊外の主婦が守ろうとする家族とは、どのようなものなのか。それは、アリスの弁護士の活躍で、物語の終盤にかけて次第に明らかになっていく。まず、農場の周辺の母親や子供たちが口裏をあわせていたことがわかる。そして最後に、彼らの先頭にたった主婦の家庭が、実は、荒れ果て崩壊していて、母親の乱れた男関係を目撃していた息子は、心に傷を負い、嘘をつく癖がついていたことが判明するのだ。

 しかし、物語は決してハッピー・エンドとはならない。というのもハワードは、逮捕されたアリスの保釈金を作るために酪農場を売却し、結局、そこはボーイスカウトのキャンプ地になってしまう。主人公の一家は、都会に戻り、ハワードは、動物園の飼育係となって、懐かしい動物の臭いをわずかに漂わせる。

 法廷でアリスを追い詰めようとしたこの主婦もまた、郊外の建前に縛られ、自分で自分の首を絞めてしまったといえる。しかし一方で、土の匂いのする最後の酪農場は、消え去ってしまう。これは、現在の郊外の家族が置かれた状況を暗示しているようにも思える。

 現代の家族にとって、戻ることができる大地は、郊外の理想によって次々と消し去られていく(※その事実は、トーマス・フリードマンの『グリーン革命』を読むと、地球の運命を決めるほどの重みを持つが、そのことについてはいずれ詳しく書きたい)。それでは、郊外に未来があるのかといえば、建前は立派でも中身は着実に希薄になっているように思える。要するに、郊外のライフスタイルや建前などを枠組みや支えにし、家族らしい形態を維持しているが、枠組みに依存するあまり、中身のバランスが崩れたり、あるいは枠組みだけが残って空洞化しているということだ。

 これは、けっこう恐ろしいことである。少なくとも、枠組みではなく、絆で結ばれる関係であれば、絆がほどけた段階で単純にばらばらになればすむことだが、中身は崩壊しているのに、枠だけがしっかりしていたら、どうなってしまうのか。

 筆者がそんなことを考えているいま、アメリカでは、母親がふたりの子供を殺害して誘拐を装った事件が話題になり、日本では、横浜港の母子殺人事件が大きな話題になっている。これは、どちらも郊外に暮らす家族に起こった悲劇であり、何とも暗示的である。

付記:ハミルトンの『A Map of the World』は、スコット・エリオット監督がこの小説を映画化した『マップ・オブ・ザ・ワールド』の公開にあわせて、2001年に邦訳が出た。素晴らしい小説だがまったく評判にならなかったようだ。ちなみに映画の方は、『マップ・オブ・ザ・ワールド』レビューに書いたように、演劇的な演出の限界が露呈する物足りない作品になっていた。


(upload:2010/09/24)
 
 
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