ふたりの子供たちを育て、夫の営む酪農場を手伝い、苦しい家計を助けるために町の学校で保健婦として働くアリス。最近、長女が癇癪を起こすようになり、育児に少し自信を失いかけていた矢先に、次々と災いがふりかかり、彼女は思いもよらない苦境に立たされる。彼女は親友のテレサから預かった娘を、ちょっと目を離したすきに溺死させてしまう。それから間もなく彼女は、勤務先の学校に通う生徒の母親から児童虐待で訴えられ、逮捕されてしまう。
ベストセラーとなったジェーン・ハミルトンの原作長編『A Map of the World』は、アメリカで出版されたばかりの時に読み、雑誌で紹介したことがある。とても素晴らしい小説だ。しかし、地域社会や土地開発から、家族の絆、幼児虐待、女性の心理、マスコミの報道姿勢の問題まで様々な要素が盛り込まれたこの小説を映画にするのは簡単なことではない。
監督のスコット・エリオットは演劇界でのキャリアを生かし、限定された空間から緊迫感に満ちたドラマを紡ぎだし、主人公とその家族、親友の微妙な心理を鋭く掘り下げている。これはこれでひとつの明確なアプローチとして評価できる。シガニー・ウィーヴァーとジュリアン・ムーアを筆頭に、役者たちの演技も見応えがあり、それぞれに複雑な葛藤が浮かび上がってくる。
しかし、この限定された空間を重視した演劇的な演出は、映画としての限界も露呈してしまう。この映画では、筆者が原作のなかで最も重要だと思えるポイントが前面に出てこない。原作と映画では、アリスと夫が営む酪農場の意味がまったく違う。原作では、主人公たちが購入した酪農場の周囲は、宅地開発が進み、サバービア(郊外住宅地)に包囲されようとしている。主人公一家と周囲のコミュニティの関係は決して良好とはいえない。コミュニティの人々は、主人公たちのことを、自分たちで農場がやれると思い込んでいるヒッピーとみなし、最初からまったく交際しようとはしない。
一方、アリスの方も酪農に理解のない住人たちのことをこのように見ている。「ときおり住人たちは、肥やしの臭いや機械の騒音のことで苦情をいってきた。彼らが朝食のシリアルにかける体にいい白い液体と、目と鼻の先でガタガタやったり、悪臭をだすハワードの仕事の関係がわかっている人はごくわずかのようだった」
つまり原作では、主人公一家が酪農場を営んでいること自体が、すでに周囲のコミュニティと不協和音を奏でる原因になっているのだが、映画では、それがただの酪農場にしか見えない。周囲との関係がまったく描かれないばかりか、周囲にはのどかな自然が広がっているような印象すら受けるのだ。
この違いは大きい。なぜならアリスが児童虐待で訴えられる背景には、異物を排除しようとする画一化されたコミュニティの力が働いている。映画ではそれが、彼女を訴える主婦の個人的な恨みにも見えかねない。原作では、孤立する酪農場と郊外の主婦のイメージが明確に対置されている。法廷でアリスを追い詰めるのは、“理想的な郊外の主婦”のイメージなのだ。
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