『マルコヴィッチの穴』と『ヒューマンネイチュア』で、奇想天外にしてオリジナルな世界を切り開いた脚本家チャーリー・カウフマン。彼が脚本を手がけた2本の新作が、時期を同じくして公開される。スパイク・ジョーンズと再び組んだ『アダプテーション』とジョージ・クルーニーの初監督作品となる『コンフェッション』には、これまでの彼の作品にはなかった共通点がある。
この2作品にはそれぞれ、女性ルポライター、スーザン・オーリアンが書いたノンフィクション「蘭に魅せられた男」とテレビ界の伝説的なプロデューサー、チャック・バリスが書いた異色の自伝「コンフェッション」という原作がある。しかし、カウフマンがそれをすんなりと脚色するはずもない。
題名そのものに"脚色"の意味がある『アダプテーション』には、強烈なひねりが加えられている。実際に「蘭に魅せられた男」の脚色を依頼されたカウフマンは、映画のなかに自分ばかりか、ドナルドなる双子の弟(ニコラス・ケイジの二役)まで登場させてしまう。映画のなかのチャーリー・カウフマンは、この原作の脚色に苦戦し、ついには自分を脚本に登場させる暴挙に出る。
一方で物語は、その3年前、原作者オーリアンが「蘭に魅せられた男」を執筆している時間へと遡る。彼女は、熱狂的な蘭コレクターであるラロシュへの取材を繰り返すうちに、奥深い蘭の世界に強く惹きつけられていく。そして面白いことに、この強烈なひねりによって、映画からは、これまでの彼の作品とも響きあうふたつの要素が浮かび上がってくる。
まず、カウフマンの世界には、自己嫌悪に陥りながらも、欲望を抑えることができない人物が登場する。『マルコヴィッチの穴』の人形遣いクレイグは、うだつが上がらない自分に嫌気がさしているが、穴の存在を知ると野心がもたげ、マルコヴィッチを乗っ取って名声を得る。『ヒューマンネイチュア』のヒロイン、ライラは、毛むくじゃらの身体を隠して社会生活を送ることに耐えられず、森のなかの孤独な生活を選ぶが、欲望を抑えられず、人間社会に復帰する。
『アダプテーション』のチャーリーは、デブで存在感がないことに激しく悩んでいるが、妄想のなかでは、美人プロデューサーやウェイトレスとセックスを繰り広げ、ついにはそこに原作者オーリアンまで引き込んでいく。
カウフマンの世界で、そんな人間の姿を異化してみせるのが、19世紀の世界や価値観だ。『マルコヴィッチの穴』では、19世紀の女性詩人エミリ・ディキンスンが参照されている。ひたすら人間の内面を探求した彼女は、その詩のなかで、自己という王国を外的から守るのは容易いが、己という内なる敵には無防備であるため、自らの意識を制服しなければならないと詠っている。この映画では皮肉にも、そんな詩人の巨大な人形が外から操られ、クレイグは内面を探求するどころか、野心という内なる敵に呑まれ、ディキンスンのヴィジョンを転倒させるかのように、マルコヴィッチを支配する。
『ヒューマンネイチュア』のモチーフは、バローズの「類猿人ターザン」であり、19世紀を背景にした物語に描かれる順応や教育と現代のそれが対置されることで、欲望や表層に囚われた現代人の姿やヴァーチャル化する世界が浮き彫りにされる。
『アダプテーション』の題名には、進化論に結びつく適応の意味もあり、ドラマのなかで、チャーリーは進化論に感化され、オーリアンは蘭の進化に魅了されていく。しかもこの映画にはなんと、19世紀に進化論を提唱したダーウィン当人までが登場してしまう。その進化論のヴィジョンは、競い合うように脚本を書くカウフマン兄弟や実はドラッグの快楽に溺れているオーリアンの姿を異化する。そして、クライマックスのドタバタ劇では、適応と脚色の境界が崩壊し、滑稽で哀しくもある現代の淘汰が見えてくるのだ。
一方、『コンフェッション』には、カウフマンの他の作品とは異なるアプローチがある。この映画の場合は、そもそも原作がとんでもなく現実離れしている。84年に出版されたこの自伝のなかで、著者のチャック・バリスは、彼が売れっ子のテレビ・プロデューサーという表の顔と、CIAのヒットマンという裏の顔を持ち、33人の要人暗殺に関与していたと告白しているのだ。
そこでこの映画では、これからはテレビの時代だと踏んでテレビ局に潜り込み、下積みの時代を乗り越えてプロデューサーになり、新しいアイデアを次々に繰りだすヒットメーカーと、謎の男に声をかけられ、メキシコで厳しい訓練を受け、冷戦の時代に暗躍するヒットマンというバリスのふたつの顔が、交互に描きだされていく。
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