ヒューマンネイチュア
Human Nature


2001年/アメリカ=フランス/カラー/96分/ヴィスタ/ドルビーSR・SRD
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(初出:「Cut」2002年3月号、抜粋、若干の加筆)

 

 

カウフマン流に読み直されたターザン

 

 映画『ヒューマンネイチュア』には、とんでもなくユニークな人物たちが登場し、奇想天外なドラマを繰り広げる。12歳の時に突然、毛むくじゃらの身体になってしまったライラは、人間社会に馴染めず森のなかで生活する道を選び、その体験を綴った本がベストセラーになる。しかし性欲を抑えられず人間社会に復帰し、ネイサン博士に出会う。

 躾に異常に厳しい家庭に育った博士は、マナーにとり憑かれ、ネズミにそれを学習させる実験に没頭している。ある日、森を散策していたネイサン博士とライラは、猿として育てられた野生児(パフと名付けられる)に遭遇し、博士は再教育によって彼を文明人にしようとする。

 『マルコヴィッチの穴』とこの映画を観た人は、脚本家チャーリー・カウフマンの頭のなかは一体どうなっているのかと思うことだろう。彼の世界は荒唐無稽に見えるが、しかしこの2作に限っていえば、その発想には明確な共通点がある。

 『マルコヴィッチの穴』で筆者が最も印象的だったのは、エミリ・ディキンスンの巨大な人形を操るパフォーマンスのエピソードだ。この19世紀の女流詩人は、アメリカでフロンティア精神が外部に向かって広がる時代に、その精神を内面に向けて発揮するヴィジョンを打ち出した。また、自己という王国を外敵から守るのは容易いが、己という内なる敵には無防備であるため、自らの意識を征服しなければならないと訴えた。そんな詩人の人形が他人によって操られる光景には、カウフマンの発想のヒントがある。

 彼はこの19世紀の視点をいきなり現代に引き出してしまい、現代の状況と照らし合わせる。すると現代では、己を征服するどこか、もはや誰も内面など気にしてはいない。世の中、自分がどう見えるかが重要であって、自分を忘れて他人を演じようとさえしている。そんな状況をディキンスンのヴィジョンに当てはめてみると、自己という王国に他人が勝手に入り込んできて支配しようとする話になる。そして穴から出てみると、ニュージャージーのサバービアという表層的な生活につづくフリーウェイが待っているのだ。


◆スタッフ◆

監督
ミシェル・ゴンドリー
Michel Gondry
脚本/製作 チャーリー・カウフマン
Charlie Kaufman
製作 アンソニー・ブレグマン、テッド・ホープ、スパイク・ジョーンズ
Anthony Bregman, Ted Hope, Spike Jonze
撮影 ティム・モーリス=ジョーンズ
Tim Maurice-Jones
編集 ラッセル・イック
Russell Icke
音楽 グレーム・レヴェル
Graeme Revell

◆キャスト◆

ライラ
パトリシア・アークェット
Patricia Arquette
パフ リス・エヴァンス
Rhys Ifans
ネイサン ティム・ロビンス
Tim Robbins
ガブリエル ミランダ・オットー
Miranda Otto
ルイーズ ロージー・ペレス
Rosie Perez

(配給:アスミック・エース)
 


 『ヒューマンネイチュア』にも同じことがいえる。この映画の発想の源にあるのは、どう見てもエドガー・ライス・バローズの「類猿人ターザン」だ。あるいは、唯一この原作の精神を忠実に映画に反映したヒュー・ハドソンの『グレイストーク』と対比してみてもよいだろう。カウフマンは、19世紀に自然と文明の狭間で苦悩する高貴な野生児というヴィジョンをいきなり現代に引き出し、照らし合わせることで、この脚本を作り上げている。つまり、ターザン、ジェーン、ダルノーをカウフマン流に読み直したのが、パフ、ライラ、ネイサンであり、その違いが現代という時代を浮き彫りにするのだ。

 「類猿人ターザン」や『グレイストーク』には、ターザンがジェーンへの愛ゆえに文明に順応しようとしたり、ダルノーがターザンに言葉を教えるといった関係がある。『ヒューマンネイチュア』のドラマにも順応や教育があるが、その本質はまったく違う。ライラは単に自分が特殊ではなくなるという理由で森に暮らし、ネイサンに出会うと毛むくじゃらをひたすら隠し、順応していく。ネイサンは文明を理解させるのではなく、強制的に植え付けようとするだけで、パフもまたセックスをしたいがために順応するに過ぎない。パフは最後に『グレイストーク』のターザンのように、誇り高き野生児として自然に戻るかに見えるが、それは実はマスコミを欺くパフォーマンスでしかない。

 ターザンは自然と文明という揺るぎない二項対立の狭間で苦悩するが、『ヒューマンネイチュア』で最終的に宙吊りになるのは、人間ではなく、むしろ自然や文明である。登場人物たちは、コンプレックスを解消したり、欲望を満たすために、自分ではない自分を演じ、自然や文明を都合よく消費しつづける。その結果、絶対的なものであったはずの自然や文明は、使い捨ての象徴的なイメージへと変質していくのだ。


(upload:2002/06/16)


《関連リンク》
『マルコヴィッチの穴』レビュー ■
チャーリー・カウフマン ■

 
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