映画『ヒューマンネイチュア』には、とんでもなくユニークな人物たちが登場し、奇想天外なドラマを繰り広げる。12歳の時に突然、毛むくじゃらの身体になってしまったライラは、人間社会に馴染めず森のなかで生活する道を選び、その体験を綴った本がベストセラーになる。しかし性欲を抑えられず人間社会に復帰し、ネイサン博士に出会う。
躾に異常に厳しい家庭に育った博士は、マナーにとり憑かれ、ネズミにそれを学習させる実験に没頭している。ある日、森を散策していたネイサン博士とライラは、猿として育てられた野生児(パフと名付けられる)に遭遇し、博士は再教育によって彼を文明人にしようとする。
『マルコヴィッチの穴』とこの映画を観た人は、脚本家チャーリー・カウフマンの頭のなかは一体どうなっているのかと思うことだろう。彼の世界は荒唐無稽に見えるが、しかしこの2作に限っていえば、その発想には明確な共通点がある。
『マルコヴィッチの穴』で筆者が最も印象的だったのは、エミリ・ディキンスンの巨大な人形を操るパフォーマンスのエピソードだ。この19世紀の女流詩人は、アメリカでフロンティア精神が外部に向かって広がる時代に、その精神を内面に向けて発揮するヴィジョンを打ち出した。また、自己という王国を外敵から守るのは容易いが、己という内なる敵には無防備であるため、自らの意識を征服しなければならないと訴えた。そんな詩人の人形が他人によって操られる光景には、カウフマンの発想のヒントがある。
彼はこの19世紀の視点をいきなり現代に引き出してしまい、現代の状況と照らし合わせる。すると現代では、己を征服するどこか、もはや誰も内面など気にしてはいない。世の中、自分がどう見えるかが重要であって、自分を忘れて他人を演じようとさえしている。そんな状況をディキンスンのヴィジョンに当てはめてみると、自己という王国に他人が勝手に入り込んできて支配しようとする話になる。そして穴から出てみると、ニュージャージーのサバービアという表層的な生活につづくフリーウェイが待っているのだ。
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