『マルコヴィッチの穴』以来、現実を転覆させるような奇想天外な物語と世界を次々に生み出してきた脚本家チャーリー・カウフマンが、待望の監督デビューを果たした。この映画には彼の魅力が、圧倒的な純度と密度で凝縮されている。
妻子に捨てられ、失意のどん底にあった劇作家ケイデンの人生は、マッカーサー・フェロー賞の受賞によって劇的に変わる。彼は賞金をすべて注ぎ込んで、現実世界のなかにもうひとつのニューヨークを作り、自分の人生そのものを舞台化し、歴史に残る金字塔を打ち立てようとする。
だが、それから17年経ってもまだ稽古が続けられ、彼の人生と舞台は多くの人々を巻き込みながらどこまでも絡み合っていく。
カウフマンが生み出す主人公たちは、強烈なコンプレックスを持ち、尋常ではない自己嫌悪に陥る。そして、救いを求めて自分の王国を作り上げる。その王国は普通であれば、どんな形であれ閉じたものとなる。ところが、カウフマンの世界では、そうはならない。
たとえば、『マルコヴィッチの穴』の人形師クレイグは、何事もなければ、閉じた世界のなかで人形を話し相手に自分を慰めるしかない。彼の妻ロッテも、チンパンジーやオウムを話し相手に生きるしかない。ところが、“マルコヴィッチの穴”が彼らを変える。
但し、変えるといっても、閉じていたものを開く方向へと転換するわけではない。根本的な姿勢は変わらないのに、マルコヴィッチの穴という装置が閉じた世界を著しく膨張させ、そこに他者を取り込んでしまう。だから、自分の思い通りになるはずの王国のなかに軋轢が生じ、主人公は自分と向き合わなければならなくなる。
カウフマンの世界では、そういう奇妙な転倒がしばしば起こる。『アダプテーション』に登場する脚本家カウフマンは、自分に閉じこもり、生命誕生の瞬間に遡ったり、女性プロデューサーやウェイトレスに対する妄想を膨らませたりする。ところが、彼のドッペルゲンガーともいえる弟のドナルドに導かれるようにして、本のなかのオーリアンやラロシュではなく、生身の彼らを自分の世界に引き込んでしまう。その結果、彼はある種の覚醒に至る。
『脳内ニューヨーク』では、この世界の転倒が極限まで突き詰められている。ケイデンは、彼だけが冷蔵庫のなかの牛乳が悪くなっていると感じるように、別の時間の流れのなかで、閉じた世界を生きている。彼の壮大な構想もあくまでその延長にあるものだが、舞台という装置が閉じた世界を限りなく膨張させ、自分の実人生以上に多くの人々を、そこに取り込んでいく。そして、入り組む現実と虚構の狭間に、新たな関係が生み出される。
本人は閉じた世界に向かっているにもかかわらず、新たな関係を通してその人生は開かれ、複雑なエモーションが浮かび上がってくる。それは、カウフマンにしか描き出せないエモーションといっていい。
そしてまた、サマンサ・モートン、ミシェル・ウィリアムズ、キャスリーン・キーナー、エミリー・ワトソン、ダイアン・ウィースト、ジェニファー・ジェイソン・リー、ホープ・デイヴィスという実力も個性も備えた女優陣を起用し、緻密な構成ゆえにそれぞれの出番は決して多くないにもかかわらず、彼女たちの魅力を引き出した手腕も評価すべきだろう。
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