ワン・シャオシュアイ・インタビュー
Interview with Xiaoshuai Wang


2000年10月 渋谷
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――しかし一方で、トンツーは異なる次元でこの一線を越えていくように見えます。何とかして彼女に近づきたい彼は、密かに彼女の靴や下着に触れて、その延長で彼女の歌にたどりつきます。高価なカセットレコーダーを購入して、クラブの外から彼女の歌を録音し、その歌が彼女に最も近い場所になる。 本当かどうかはわかりませんが、彼女はヴェトナム人であると言われ、彼女が歌う歌にはどこか異国的なムードがあります。そうしたディテールを通して、彼女は、すぐそばにいながら非常に遠い存在であるという印象を与えていると思うのですが。

ワン 中国のああいうクラブのような場所では、実際、中国のものだけではなくいろいろな国の歌が流れていたり、歌われていたりするのですが、そこをあえて、中国の歌でもなく、かといって完全な外国の歌でもないものを歌わせたかったので、自分たちで作った歌を彼女に歌わせました。 彼女がトンツーにとって近くて遠い存在であるという話ですが、まったくその通りです。トンツーは社会の片隅に生きる人間で、いろいろな事が実際にすごく身近に起こっていたりするのですが、彼にとってはすごく遠いものなんです。まだ完全に成長しきれていないので、自分から正面きって触れていく勇気もない。 だから彼のルアンに対する感情というのは、初恋の感覚にすごく似ています。匂いを嗅ぐこともできるし、見ることもできますが、触れることができない。そういう女性として彼女を描きました。これは青春の一時期に誰もが体験するものだと思うのですが、そういう好意だとか心の状態を描こうと思いました。

――映画の最後でガオピンがいた場所は、人間ではなく電化製品の倉庫になっている。トンツーはその管理人をしていて、彼女のそばにいようとした結果、本人が気づかぬうちに消費社会に取り込まれているように見えます。

ワン そうですね。社会の変化にともなって、自分ではわけがわからないうちに物質社会に同化されていってしまうということは往々にしてあると思います。はじめは希望を抱いて、大都会に出てくるのですが、青春も犠牲にし、たいへんなエネルギーを費やして、結局は大した金も稼げず、 あるいは都会の人間に騙されたり、馬鹿にされたりしていくという。トンツーに限っていえば、彼は結局お金はそれなりに稼いだかもしれないけれども、気持ちのよりどころであったふたりの人間を失うわけです。そうなってしまうと、金を稼いでも彼にとっては何の意味もないことになってしまう、そういう結末だと思います。

 



 ガオピンが雲隠れして、ルアンホンとも連絡がとれないということで、ひとりきりになった彼は、田舎に帰るべきなのか、そこに留まるべきなのか、どうしていいのかわからない、そもそもが無目的に出てきていますから。それは中国社会が改革開放で大きく混乱しているなかで、 人々がどうしていいかわからない状況を象徴していると思います。中国の一般人の文化的な水準は高くはありません。トンツーもそんなに文化的な水準が高い人間ではありませんから、何もわからない状況というのが非常に似ていると思います。

――トンツーはかつてのガオピンやルアンホンと同じように煙草を吸う存在になっている。すべて変わってしまったが、テープに刻み込まれた彼女の歌だけは変わっていない。しかし、その歌は二度と取り戻すことができない時間の証でもあるところが、トンツーの洗礼をより印象的なものにしていると思うのですが。

ワン 人間は成長して失うものがいろいろあると思うのですが、この場合、トンツーはガオピンが住んでた家に住むこともできたし、煙草も吸うことも覚えました。表面的には一見成長したみたいなのですが、内面というのはあまり変わっていない。彼に残されているものはルアンホンの歌で、だけど彼女に再びめぐり合えても、 自分の気持ちをどう表現していいかわからない。ということで、内心は変わってない、成長しきれていない。これは誰もがそうなのですが、成長すると物質的にはある程度、豊になれると思いますが、昔からの素朴な内心のようなものは残しつづけていく、その落差のようなものが出ていると思います。

――ジャ・ジャンクー監督にインタビューしたとき、彼は中国映画の未来について、ビデオで一般の人々がいろいろな作品を安く自由に見られるようになったこと、デジタル機材の普及をあげて、閉鎖的な映画産業の外から出てくる人たちが担っていくことになるのではないかと語っていましたが、監督はどう思われますか。

ワン いまの段階でもまだ中国政府はインディーズ、独立して映画を作ることには反対の立場をとっています。でも中国映画に未来があるとすれば、それはやはりインディーズ映画によってしかないと思います。というのは、中国政府が国の予算で映画を撮らせる条件がますます厳しくなっていますし、映画製作所の力はますます弱まっています。 そういうなかでたとえば外国の資金なり、あるいは国内の民間企業の資金なりを得て、製作所に頼らない独立したプロで映画を撮るということが、たぶん唯一の道ではないかと思います。いろいろなかたちの独立映画が出てくることによって、中国の映画市場もまた活性化されると思うし、いろいろなタイプの映画が出てくれば、 中国の行政の映画に対する管理にも変化を及ぼすのではないかと思います。作家性のある映画でも、ドキュメンタリーでも、まったくの商業的な映画でもいいのです。政府の統一した管理から離れたところで、いろいろな映画が出てくることが、中国映画の未来に繋がるのではないかと思います。

――監督自身はどのようなスタンスで映画を作っていこうと考えていますか。

ワン まずできるだけ海外の資金で、しかも中国政府の審査にちゃんと通るかたちで、自分が撮りたい映画が撮れたらと思います。けれども、もしそれが許されないのであれば、またアンダーグラウンドの映画に戻るということも考えないではないですし、またデジタル・カメラによって撮るということも考えています。

――最後に次回作について教えてください。

ワン いま新作が編集段階にきてますが、その次についてはまったく予定はありません。新作は、農村から北京に出てきて、自転車でいま流行りのメッセンジャーをしている青年が、大切な自転車を無くしてしまう。もう一方に、北京生まれの少年がいて、彼は家が貧しく、親が自転車を買ってやるといいながらも買ってやれなくて、 たまたま目についた自転車をこっそり自分のものにしてしまう。それがメッセンジャーの自転車だったというところから話が広がっていく、そういう映画です。

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(upload:2001/05/05)
 
 
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