ガオピンが雲隠れして、ルアンホンとも連絡がとれないということで、ひとりきりになった彼は、田舎に帰るべきなのか、そこに留まるべきなのか、どうしていいのかわからない、そもそもが無目的に出てきていますから。それは中国社会が改革開放で大きく混乱しているなかで、
人々がどうしていいかわからない状況を象徴していると思います。中国の一般人の文化的な水準は高くはありません。トンツーもそんなに文化的な水準が高い人間ではありませんから、何もわからない状況というのが非常に似ていると思います。
――トンツーはかつてのガオピンやルアンホンと同じように煙草を吸う存在になっている。すべて変わってしまったが、テープに刻み込まれた彼女の歌だけは変わっていない。しかし、その歌は二度と取り戻すことができない時間の証でもあるところが、トンツーの洗礼をより印象的なものにしていると思うのですが。
ワン 人間は成長して失うものがいろいろあると思うのですが、この場合、トンツーはガオピンが住んでた家に住むこともできたし、煙草も吸うことも覚えました。表面的には一見成長したみたいなのですが、内面というのはあまり変わっていない。彼に残されているものはルアンホンの歌で、だけど彼女に再びめぐり合えても、
自分の気持ちをどう表現していいかわからない。ということで、内心は変わってない、成長しきれていない。これは誰もがそうなのですが、成長すると物質的にはある程度、豊になれると思いますが、昔からの素朴な内心のようなものは残しつづけていく、その落差のようなものが出ていると思います。
――ジャ・ジャンクー監督にインタビューしたとき、彼は中国映画の未来について、ビデオで一般の人々がいろいろな作品を安く自由に見られるようになったこと、デジタル機材の普及をあげて、閉鎖的な映画産業の外から出てくる人たちが担っていくことになるのではないかと語っていましたが、監督はどう思われますか。
ワン いまの段階でもまだ中国政府はインディーズ、独立して映画を作ることには反対の立場をとっています。でも中国映画に未来があるとすれば、それはやはりインディーズ映画によってしかないと思います。というのは、中国政府が国の予算で映画を撮らせる条件がますます厳しくなっていますし、映画製作所の力はますます弱まっています。
そういうなかでたとえば外国の資金なり、あるいは国内の民間企業の資金なりを得て、製作所に頼らない独立したプロで映画を撮るということが、たぶん唯一の道ではないかと思います。いろいろなかたちの独立映画が出てくることによって、中国の映画市場もまた活性化されると思うし、いろいろなタイプの映画が出てくれば、
中国の行政の映画に対する管理にも変化を及ぼすのではないかと思います。作家性のある映画でも、ドキュメンタリーでも、まったくの商業的な映画でもいいのです。政府の統一した管理から離れたところで、いろいろな映画が出てくることが、中国映画の未来に繋がるのではないかと思います。
――監督自身はどのようなスタンスで映画を作っていこうと考えていますか。
ワン まずできるだけ海外の資金で、しかも中国政府の審査にちゃんと通るかたちで、自分が撮りたい映画が撮れたらと思います。けれども、もしそれが許されないのであれば、またアンダーグラウンドの映画に戻るということも考えないではないですし、またデジタル・カメラによって撮るということも考えています。
――最後に次回作について教えてください。
ワン いま新作が編集段階にきてますが、その次についてはまったく予定はありません。新作は、農村から北京に出てきて、自転車でいま流行りのメッセンジャーをしている青年が、大切な自転車を無くしてしまう。もう一方に、北京生まれの少年がいて、彼は家が貧しく、親が自転車を買ってやるといいながらも買ってやれなくて、
たまたま目についた自転車をこっそり自分のものにしてしまう。それがメッセンジャーの自転車だったというところから話が広がっていく、そういう映画です。
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