チャン・ヤンは、劇場用長編デビュー作『スパイシー・ラブスープ』で、消費社会が広がる北京の日常を、コミュニケーションの変化を通して描きだした。この映画に登場する5組の男女は、カセット・レコーダー、ラジコンやゲームなどのオモチャ、テレビ番組、カラオケ、カメラなど、それぞれに消費社会の産物を通して、心を通わせようとする。そんな改革開放以後の新しい北京に対して、彼が2作目の『こころの湯』で描くのは、
社会の変化のなかで消え去ろうとしている北京の日常である。
映画の舞台は、常連客で賑わう北京の下町にある銭湯。父親のリュウが営むこの銭湯を継ぐのを望まなかった長男ターミンは、経済的な発展が著しい深センでビジネスマンとして働いている。そんな彼のもとに、父と暮らす知的障害のある弟アミンからハガキが届く。そのハガキに描かれた絵を見て、父親が倒れたのではと思い込んだターミンは、久しぶりに帰郷する。そして銭湯を手伝ううちに、仕事を愛する父親の気持ちを理解するようになる。 しかしそんな矢先、再開発のために銭湯の取り壊しが決まってしまう。
チャン・ヤンが、これまでの伝統的なコミュニケーションを描きだす場として、銭湯を選んだのはなるほどと思う。父親役のチュウ・シュイや弟役のジャン・ウーもいい味を出しているし、人々の触れ合いも人情味豊かに、生き生きと描かれている。しかも、人間と水の深い関わりを掘り下げようともしている。しかし、『スパイシー・ラブスープ』とは違い、このドラマにはチャン・ヤンの視点や感性でなければ描けないと思えるような世界が見えてこない。
『スパイシー・ラブスープ』の場合は、コミュニケーションの変化を様々なかたちで描きながら、それを否定も肯定もしないことが成功していた。ひとつ間違うと自分の居場所がわからなくなるような浮遊感をどう解釈するかは、観客にゆだねられている。だから、解釈しだいで、消費社会の怖さを積極的に読み取ることもできた。
しかし、この『こころの湯』では、チャン・ヤンのスタンスがきわめて曖昧だ。たとえば、この映画は、ファイト・ヘルマーのドイツ映画『ツバル』と対比してみると興味深い。2本の映画は共通する主題を扱っている。『ツバル』は、再開発が進む地域に残された古いプールを守ろうとする人々の姿を描いている。ヘルマーは、「人はプールに泳ぎにきているのではなく、
人に会うために集まっている。現実に目を向けるとこのプールのような場所がどんどん減っている」と語っている。
その『ツバル』には、主人公の兄グレーゴルや彼が持ち込む奇妙なデジタル機械を象徴として、プールを壊そうとする存在が明確に描かれている。だからこそ、主人公とその仲間は、人間の心を象徴するアナログ機械を運びだす。これに対して「こころの湯」では、ただ再開発というだけで、なにがこの銭湯という伝統的なコミュニケーションを壊そうとしているのかが明確にされない。 |