路學長(ルー・シュエチャン)インタビュー

2005年2月 渋谷 セルリアンタワー
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(初出:「CD Journal」2005年4月号、加筆)
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犬をめぐる物語の背後にある中国社会の現実


 中国の北京市では、95年から飼犬の一斉取締りが始まった。飼犬には登録が義務付けられていたが、その登録料は庶民には手が届かないほど高額だった。路學長(ルー・シュエチャン)監督の『わが家の犬は世界一』では、労働者ラオが、警察に捕まった未登録の愛犬を何とかして取り戻そうとすることから巻き起こる騒動が描かれる。

 しかし、そんな物語からよくあるペットものを想像するのは大きな間違いだ。監督が見つめているのは、変貌する中国社会であり、そこに生きる人々の現実なのだ。

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――以前、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督にインタビューしたときに、彼は、「中国映画には、記録映画、ドキュメンタリーの伝統が欠けている。それは、これまでの中国では育ちにくいものだった」と語っていました。彼の言葉は、事実を記録した映像というものが、これまで政治的なプロパガンダとしてしか機能してこなかったということを意味していると思います。路監督のこの『わが家の犬は世界一』には、事実に根ざしたドキュメンタリー的な要素があると思いますが、監督はドキュメンタリーとかドキュメンタリー的な視点についてはどのように考えているのでしょうか?

「1949年以後の中国映画というのは、舞台劇をそのまま映画化することが主流となっていました。それが映画だというのが伝統だったのです。特に文化大革命の時期は、舞台の演目をそのまま映画にするということが行われていました。歴史的に中国では、映画は政治的な宣伝の道具だった。ドキュメンタリーは生活をリアルに表現するもので、政治的な宣伝には逆効果にもなるわけですから、ドキュメンタリーを撮る人は少なかった。そういう意味で確かに、伝統的にドキュメンタリーが弱いということがあります。私もそのひとりですが、80年代の末から90年代の初頭に電影学院を卒業した監督たちは、実は大学で世界の優れた記録映画を観ています。私もそういうものに影響されたのかもしれませんが、自分の映画を通して中国人のリアルな生活、暮らしぶりを撮りたいという思いがあります。この映画はドラマですが、日々の暮らしをありのままに描きたいというのが実は最初の動機でした」


◆プロフィール◆
路學長(ルー・シュエチャン)
1964年北京生まれ。幼い頃から絵を学び、中央美術学院の付属高校に進学。その後北京電影学院監督科で学んだ。MTV、TVドラマの演出を経て、「長大成人」(未)で映画監督デビュー。2作目「非常夏日」(未)で、金鶏賞最優秀監督特別賞、第4回大学生電影節最優秀監督賞及び最優秀新人賞を受賞。上海映画評論家協会が選ぶ10本に選ばれ、第52回ロカルノ国際映画祭に正式出品された。
(『わが家の犬は世界一』プレスより引用)

 

 

 
 
 
 


――これまでの監督作には実話に基づく作品があったと思いますが、やはりいつも現実を反映して映画を作ろうとしているということでしょうか?

「そうですね。社会の変化のなかで人がどのように成長していったかということを追及したのが、私の最初の映画(「長大成人」)でした。70年代から90年代にかけて成長した若者の話を撮ることによって、その間の中国社会の変動というものをそこに描き出そうとした。だからそういう姿勢は一貫していると思います」

――この映画を作るにあたって、ペット事情などについてリサーチをしたりしたのでしょうか?あるいは、身近に登場人物のモデルとなった人がいたりしたのでしょうか?

「むしろリサーチする必要がなかった。私のまわりにこういう事例がたくさんあるんです。この映画に出てくることというのは、私たちが毎日、目にしているようなことばかりです。たとえば、犬を没収されてしまう話は、私の親戚が実際に遭遇したことなのです」

――そういう断片を結びつけて、この物語ができあがった。

「まさに私自身も当事者なんです。親戚が犬を取り戻すために派出所に行くのに同行したんです。だから自分の体験でもある。この映画に反映された中国の社会現象というのは、なにもあえて探しにいったり、話を作るためにリサーチしなくても、いくらでもそこらへんに転がっている。だからあとは、それを映画にするかしないかという監督の問題なんです。たとえば、この映画のなかにもありますが、晩御飯を食べ終わって、暗くなってからこっそり犬の散歩に出かけるというのは、しょっちゅう見かける光景です。そして、よく気をつけて見ると、物陰で警察が時期を見計らってじっと待っているんですよ、突撃するために。そういうのは何度も見てます。また、主人公の家庭というのも、中国の庶民の最も典型的な家庭だと思います。両親が労働者で、一人っ子で、みんなああいうところに住んでいる」

――主人公のラオは、以前は麻雀をやっていましたが、いまは犬のカーラがそのかわりになっています。このドラマを見ていると、麻雀は伝統的な人間関係を、ペットの趣味はもっと個人的な新しい在り方を象徴し、社会や日常生活の変化を物語っているように思えるのですが。

「中国の中年より上の人々にとっては、麻雀が一番の暇つぶしになっていて、なかには寝食も忘れて麻雀する人もいます。私が麻雀を持ってきたのは、それほどの趣味をやめてまで、犬を飼うのはなぜなんだろうということを提示したかったからなんです。そうすれば、観客の興味を引き出せると思った。ではどうしてかというと、人間からは得られない深い情感を犬から得ているからです」

――ペットを飼う人が増加したことと社会の変化に結びつきがあると思いますか?

「関係あると思います。私自身がヨーロッパなどを訪れてみて、社会が豊かになればペットの愛好者がどんどん増えるということを感じます。中国では90年代のはじめに犬を飼うことを非常に厳しく取り締まったんですが、それでも犬を飼う人がぜんぜん減らなかった、時が経つにつれてもっと増えてきているんですね、だからもうそれはどうにもならないことだと思います。いま現在の状況は、この映画が上映されたことで非常にいい効果というか、わずかな時間のうちに政府がいままでの取締りの制度を緩和し、完全に自由ではないものの、払うお金を安くし、昔ほどこそこそしなくてすむようになりました。そういう意味では、この映画もペット愛好家に貢献できたかなと思っています」

――たとえば麻雀であれば、お互いに話もするだろうし、場のなかで共有するものもあると思います。これに対して、主人公の家族の場合は、それぞれにカーラに思い入れを持っているけど、それを共有してはいない。それが麻雀と対照的な感じがするのですが。

「そういう解釈というのは、確かにいまの中国の状況にぴったり当てはまっていると思います。私自身は、そういう考えがあって麻雀を持ってきたわけではないのですが、確かにそういう見方はできると思います。それで、なぜラオが犬と友だちになって、他の仲間と付き合わなかったり、家族との間に溝があるかということなのですが、結局、ラオのようなお金もない労働者というのは、実際の生活や人間関係のなかで、常にどちらかといえば見下される立場にあり、人と対等な関係を結ぶことができない。でも、犬と友だちになることで、人間関係で得られない感情が犬から得られる。自分がカーラの前でだけ人間らしくいられるという彼の台詞は、まさに犬に対する彼の思いを物語っている。だから麻雀をやめたんだと思いますね」

――リアンが通う学校の授業で、生徒たちが合唱する場面では、「中国は大きなひとつの家」というように歌われます。この歌詞は、中国の人民がひとつになって困難を克服していくといった意味が含まれていたと思います。これに対して、ドラマの別の場面では、ラオの母親を含む長屋の住人が、日照権をめぐって賠償金を手にしたり、リアンが、被害者の両親から訴えられそうになります。合唱の歌の歌詞とそうしたドラマには、皮肉な対照があるように思いますが。

「映画を観た方がそういうふうに解釈されるのはかまいません。ただ実際に、私たちは学生時代にああいう歌ばかり歌わされてきたんです」

――いまはどうなんでしょう、歌のことですが。

「もちろんいまの学校ではもうちょっと流行のものに変わっているでしょうし、中国だけではなく世界の流行歌を歌っていると思いますが、70年代、80年代にはほとんどああいう歌ばかり歌わされていたんです。実は映画のなかのあの歌は、当時ものすごく流行った、というか政府を賛えるシンボルみたいな歌ですから、もちろん政府が歌わせたんですが、いまでも中国では、いろいろある歌番組で必ずといっていいほど歌われるような歌です。そういう解釈、あれは風刺なのだと解釈されてもけっこうです」===> 2ページへ続く

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