だが、捕まったカーラを何とかしようとするのはラオだけではない。自分が望んでリストラされたわけでもない妻にとっても、カーラは慰めになっている。リアンも一人っ子でなければ、自分より犬が可愛がられることがそれほど気になりはしなかっただろう。そんな不満を抱えるリアンの慰めになるのもやはりカーラだ。
ラオがやめた麻雀とこのペットをめぐる家族の関係には、社会の変化を見ることができる。仲間たちが卓を囲み、それなりに価値観を共有する麻雀は、伝統的なコミュニティを象徴しているといってよいだろう。これに対して、ラオの一家の真中にはカーラがいるが、彼らは感情を共有できない。というよりも、感情を共有できないからこそ、それぞれにカーラに慰めを見出すのだ。
そして、こうした社会の変化をとらえる視点とともに、もうひとつ見過ごすわけにはいかないのが、檻のイメージだ。この映画で檻に入れられるのは犬だけではない。夜中に派出所にカーラの様子を見に行ったリアンは、カーラを確認すると同時に、向かいの檻に女が閉じ込められているのに気づく。そして、後に喧嘩に巻き込まれた彼は、今度は自分がその檻に入れられることになる。一方、ラオもまた、ペットを売買する闇のマーケットをうろついているうちに、犬の売人と間違われ、護送車に押し込まれてしまう。
この映画では、そんなイメージが積み重なっていくことによって、人間と動物の境界が曖昧になっていく。というよりも、人間が動物同然の存在になっていく。それが最も端的に現れているのが、警察が闇のマーケットを取り締まる場面だ。警官に気づいた売人たちは、再開発のために取り壊されかけた家屋に逃げ込み、息を潜める。警官たちは、手を叩いたり、足を踏み鳴らすことで、その売人たちを捕らえていく。物音で動物たちが反応し、居場所がわかってしまうからだ。それは、取締りにおけるひとつのテクニックだが、この場面には、明らかに警察が、人間と動物をまったく同じものとみなし、扱っているという含みがある。
この映画は、ペットをめぐる騒動を描きながら、中国社会の変化や弱者といえる人々の在り方を実に巧みに浮き彫りにしているのだ。 |