路學長(ルー・シュエチャン)インタビュー

2005年2月 渋谷 セルリアンタワー
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――ラオの母親は、日照権の訴訟といってもすんなり理解できるわけではなく、いきなり大金が転がり込んできてたまげているわけですよね。

「北京は以前はみんな平屋の長屋でした。それが改革開放にともなって、いきなりあのものすごく高いビルがどんどん作られるようになった。実際、この日照権というのは、いまの中国、特に北京の裁判で一番多い案件なんです。だからこれは非常に現実的な問題でもある。私がこのエピソードを盛り込んだ理由は、お母さんの台詞に出ています。「この年になってはじめて、太陽も個人のものという考えがあるんだって知ったよ」と言いますね。特にあの年代の人たちには、モノというのはみな公のもの、すべて共有制だったわけです。それからだんだん個人のモノが認められていくけれども、太陽はさすがに公のものだと思っていたのに、というところに私の意図がありました。これまでの中国人にとっては、みんなのために、生きる目標や理想があったわけですが、そうではなくなって、ひとりひとりの人生、生きる目標は違っていい、というのがいまの時代ということです」

――改革開放、伝統的なコミュニティの崩壊、個人の権利やペットの趣味といったことがみな繋がっているということですね。

「その通りですね」

――映画の冒頭で、94年に北京市が犬の飼育の厳重制限を決定し、95年に一斉取締りが始まったという説明が出てきます。この厳重制限は、登録の料金の金額にしても、取締りについても極端な印象を受けるのですが、狂犬病や衛生上の問題以外に、なにか他の事情と絡み合って、こういう制度ができたということはなかったのでしょうか?

 

 
 
 
 


「私自身も、人を噛むとか、不衛生という理由だけで、こんな厳しい制度が作られることはないだろうと思いますので、外国の方がそういう印象を持つのは当然だろうと思います。実はそこには背景があって、中国は歴史的にみて、生命というものを尊重してこなかった。人間に対してそうだったのですから、動物にはもっと極端なことをしなければ取り締まれない、だからそういう制度になった。それほど生命を重視していない。私が今回こういう映画を撮りたいと思ったのも、そういう背景があるからなんです。これは犬の話なんですが、実は私が描きたかったのは、国とか社会が人間を軽視していることでした。この映画の中国語の題名は、「カーラは一匹の犬」なんですが、最初は「ラオは一匹の犬」にしようと思ったほどでした。でもそれはさすがに問題があるだろうと思って、やめたんです。
 私は、いまの中国社会が一番必要としているのは、まさに人間や生命あるものを尊重することだと思います。ただそれも少しずつではありますが、変わってきています。それがどこに現れているかというと、5年前だったら、もしかするとこの映画は中国の検閲を通らなかったかもしれないし、大きな映画館で上映されることはなかったかもしれない。でも、幸いにもすぐに検閲を通り、またかなり大きな宣伝をして、映画館で上映することができました。また、この映画が上映されたあとで、法案が変わって罰金が少なくなったということからしても、中国社会が少しずつではあるけれど変わりつつあることがわかる。
 それから、ちょっと補足しておくと、最近の中国では、まあこれは民間の組織ですが、野犬などを保護して、何とかしようとしている自発的な組織もできています。多少暮らしも豊かになってきているので、そうした小さいものに対する態度が変わってきているということは実際にあります。それと、さっき歴史があるといいましたが、たとえば私の子供時代、文革の頃には物心もついてましたが、あの頃の教育というのは、人を階級で区切る教育でした。おまえばブルジョア階級、こちらはプロレタリア階級、つまり人と人の間に線を引いて、対立させるという教育をしてきたわけですから、それはもう生命や人間を尊重するということにはまったくならない。子供の頃からそういう教育をし、植え付けてきたという歴史があるということです」

――捕まったカーラは檻に押し込まれます。夜中にカーラの様子を見にいったリアンは、向かいの檻に女が閉じ込められているの気づきます。そんな彼は、最後には今度は自分がそこに押し込まれてしまいます。ラオも、犬の売人と間違われて護送車に押し込まれます。この映画では、ペットへの愛情とそんな檻のイメージをめぐって、人と動物の境界が曖昧になっていくところがあります。

「そうです、まさにその通りです。最初の構想では、あの犬が押し込まれる場所と、人間が押し込まれる場所を同じものにしようかなと思ったくらいですから、そこにははっきりとした意図があります」

――第六世代の監督たちは、自分たちで資金を調達しなければならなかったり、政府の審査をパスしなければならなかったりと、様々な制約を受けていると思います。以前、王小帥(ワン・シャオシュアイ)監督は、「中国映画に未来があるとすれば、それは政府の統一した管理から離れたインディーズ映画だと思う」と語っていましたが、路監督は、中国映画の現状と未来をどんなふうに考えていますか?

「私自身は、王監督のその考えには完全には同意していません。体制内で撮るとか、インディペンデントとか、いろいろ方法はあると思いますが、その方法ははあまり重要ではないと思っています。大事なことは映画そのもの、撮った作品がどういう作品であるかということです。いまの中国の若い監督たちが置かれている状況をお話すると、自分の撮った映画が検閲に通りそうにないなというときに、ほとんどの若い監督は、国内で審査を通ることを諦めて、そのまま海外にこっそり持ち出すでしょう。海外の映画祭に出品して認められれば、それが次の投資につながりますから。たぶんほとんどの人はそうすると思います。そうした方法をとる利点は確かにあります。インディペンデントと呼ぼうがアンダーグラウンドと呼ぼうとかまいませんが、まあ、非常に自由で、自分の撮りたいものを撮ることができます。そういう意味ではとても羨ましい方法ではあるのですが、ひとつだけ問題があって、それは中国の観客に観てもらえるチャンスがほとんどないということです。
 それで、いまの中国ではですね、観客が観ることができるいい映画というのが非常に少ない。というのも、観客が観られる映画は、ほとんど二極化されている。ひとつは政府の宣伝の映画、私たちは主旋律映画といっているんですが、いわゆる体制映画ですね。もうひとつは商業映画。しかし私はいまの中国には、まだ本当のエンターテインメント映画といえるものはないと思っているのですが、とにかくその両極しかない。私自身は、映画にはいろいろな作品があっていいと思っているのですが、その中間というものがない極端な状況になっている。
 ただ実際には、その中間に位置するような、いろいろなスタイルの映画を作り始めている監督もいます。そういう意味では中国映画の状況というのも、数年前に比べると、かなり変化してきています。ですからまあ、外国の方は、すぐ体制の映画=宣伝映画、主旋律映画というように思われるのですが、必ずしもそこまで単一のものではなくなってきている。もちろん主旋律映画でもなく、商業映画でもないものを作って、検閲に通るためにはものすごく大変な思いも努力もしなければならない。これは映画界を知らない人にはたぶんわかってもらえないでしょうが、体制内にとどまって政府に認められる、そのためには政府と常に交渉して対話していかなければならないのですが、そうやって自分の当然の権利を勝ち取るということは、実はすごく価値のあることだと思っています。だから、私自身は最初に映画を撮り始めてから、ずっとその作業をしています。ちょっと前まで、特に海外では、中国で認められない映画を撮って国外で認められるというと、すごくヒーロー扱いをされたものですけれども、実際にはその方が易しいやり方であって、むしろ中国国内にとどまって政府に認めさせる努力をすることの方がよっぽど大変なんです」

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(upload:2005/05/08)
 
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