ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ・インタビュー

1997年 渋谷
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――ロジェとイゴールの親子が神を失っているのに対して、アシタには信仰がある。そういう人物を意識的に登場させていると思いますが、彼らのコントラストをどのように考えていますか。

LD 答になってないかもしれませんが、確かに必然性があってその信仰という要素が取り入れられているわけです。確かにアシタはアフリカの伝統を背負ってヨーロッパに来ています。ところが父子の方は、もはや信仰もなければ法もない。しかしイゴールは最後には真実を告げることになります。 この真実を告げるということは、神の恩寵の訪れと考えることも確かにできるでしょう。彼が告白しなければならないことを義務づけるものは何もないわけですから、一種の神秘が訪れたと考えることもできるでしょう。

 脚本で私たちが書いたシーンのひとつに、アシタがイゴールに子供を抱かせるシーンがあります。それまで彼女はイゴールに不信感を持っていたのに、その人に対して信頼を寄せます。そうやって人間的な見地から見て、イゴールが信頼に足る存在であることをアシタが示すわけです。 この信頼に値するだけの人物であるから、イゴールは本当のことを言わなければならなくなります。ただひとりの外国人女性から寄せられた信頼の方が、父親に対する裏切りよりも重要だと決めるのは何か、それはまったく説明することはできません。アシタに本当のことを告げないでイタリアに行かせてしまうことだってできたわけです。 そのときにイゴールのなかに起こったことは、いわば悔悛、転換であって、それは説明がつかないものです。

■■散りばめられた象徴と現場の自発性■■

――この映画では、財布を埋めた場所にアミドゥが埋められたり、彼が埋められた場所に止まった鶏を、後にアシタが殺して、夫の所在を占ったり、イゴールが父親と同じ指輪をしているなど、象徴的なイメージが映画に深い意味を与えていると思うのですが。

JPD 最初に財布が埋められ、後に同じ場所に死体が埋められるというのは、ストーリーの全体がそこに集約されるように、あのシーンが全体を象徴する細部となるように、脚本の段階から考えていました。それから、映画の前半に、父子の関係を象徴するようなものを細かく入れていきました。たとえば、指輪があり、刺青があります。 父親は息子が自分と同じになることを望んでいます。ですから父と子がまったく同じ台詞を、同じ話し方をします。労働者たちの部屋の扉を叩くときも、トン、トン、ロジェだ、トン、トン、イゴールだと言います。煙草の吸い方もまったく同じ動作をします。ふたりがまったく同じ存在であることを示すために、同じ動作をさせました。 撮影でも、ふたりの肉体がひとつになってしまって、どちらの手や足かわからないほど溶け合うような撮り方をしました。

LD 契約≠ニいうイメージが最初から頭のなかにありました。つまり父親が子供に指輪を渡す、殺したことは黙っている、それはすべて父と子の契約なのです。息子が自分を裏切らないように、同じ指輪を渡す、ひとつの契約です。またその契約は、ガレージの主人との会話のなかにも出てきます。ガレージの主人がイゴールに対して、 また遅刻した、契約を遵守していないというふうに言います。こういう契約という考えがいろいろなシーンのなかに取り入れられています。殺されてしまったアミドゥに対する約束、結局イゴールはそれを守るわけですが、これもひとつの契約のかたちです。ですから、私たちの頭のなかにはいつもこの契約という考え方がありました。契約はひとつの法、掟ですから。

――以前の監督作では名の通った俳優も起用していましたが、この作品でアマチュアの俳優を積極的に起用しようと思ったのはなぜですか。

JPD 特にロジェ役には有名な俳優を使いたくなかった。有名な俳優がきてしまうと、観客と人物のあいだに俳優像が入ってしまい、繋がりの障害になります。結局、ロジェを演じたのは演劇の役者で、まだ若いから知られていない役者です。この映画のなかでプロの俳優は彼だけです。イゴールは15歳ですから、まったくのアマチュアですし、 アシタ役の彼女も映画の出演経験はあるといっても、本職は小学校の先生で、演技のテクニックはまったく持っていません。その他の助演の人々は、私たちの友だちか、友だちの友だちです。プロの俳優を使いたくなかったのは、往々にしてプロの俳優は、演技のテクニックの後ろに隠れてしまって、自分自身を出してくれません。演技に支えられて自分のなかから出てくるものがない。 ロジェ役をやった俳優は、まだそれほど演技のテクニックを持っていなかったのと、カメラに向かって仕事をするのが始めてだったので、私たちをすごく信頼してくれて、かなりのものを自分の方から与えてくれました。

LD すべての映画についてそれが正しいとは言えませんが、この映画では俳優にもリスクを負ってほしかったんです。プロの俳優でテクニックがあればあるほどリスクを負うのがいやで、自分のテクニックの後ろに隠れてしまいます。この映画では、テクニックでも演技でもリスクを負ってほしかった。もしプロの俳優を使っていたら、テクニックが無駄であることを説得し、 それを取り去り、リスクを背負ってもらうまでにものすごく時間がかったと思います。

◆スタッフ◆

監督/脚本/製作
リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ
Luc et Jean-Pierre Dardenne
脚本 レオン・ミショー/アルフォンス・バドロ
Leon Michaux/Alphonso Badolo
製作 ハッサン・ダルドゥル/クロード・ワリンゴ/ジャクリーン・ピエルー
Hassen Daldoul/Claude Waringo/Jacqueline Pierreux
撮影監督 アラン・マルクーン
Alain Marcoen
編集 マリー=エレーヌ・ドゾ
Marie-Helene Dozo
音楽 ジャン=マリー・ビリー/デニ・M・プンガ
Jean-Marie Billy/Denis M. Punga

◆キャスト◆

イゴール
ジェレミー・レニエ
Jeremie Renier
ロジェ オリヴィエ・グルメ
Olivier Gourmet
アシタ アシタ・ウエドラオゴ
Assita Ouedraogo
修理工場の
オーナー
フレデリック・ボドソン
Frederic Bodson
アミドゥ ラスマネ・ウエドラオゴ
Rasmane Ouedraogo
マリア ソフィア・ラブット
Sophia Laboutte

配給:ビターズ・エンド
 


 

――『イゴールの約束』におけるあなた方のスタイルには、ブレッソンとかケン・ローチに通じる部分もあると思うのですが、彼らの作品をどう思いますか。

LD ブレッソンはとても好きな監督です。作品では「少女ムシェット」「スリ」「抵抗」などが特に印象的でした。彼の映画で好きなところは、すべてが赤裸々で、表現方法を切り詰めて何かを作る、映画のなかに空白を見せる、映像そのものが偶像となるのではなく、むしろそれが何もない空白に近づいていくところです。彼は神との関係をずいぶん追及した人ですから、 神のために場所を空けているような、そういう感覚が好きです。ケン・ローチについては、『ケス』『レイニング・ストーンズ』『リフ・ラフ』などがとても好きです。ローチの好きなところは、俳優に対して持っている自由さや映画のリズムに対する自由さです。あるシーンが、ドラマとしてはもうカットしてもよさそうなのに、どんどん続いていくということが彼の作品では起こります。 たとえば、『ケス』のなかに出てくるサッカーのシーン、あれは10分くらい続きますけど、ドラマ的に見たときにはまったくそんな必要がないのですが、あのなかにある自発性がスクリーンに見えるところが好きです。『リフ・ラフ』でも、あの墓地で、会葬者に遺骨の灰が降りかかるところが気に入ってます。

――あなた方の映画では、先ほどの象徴的なイメージのように緻密に作りこむ部分と、アマチュアの俳優を起用するように自発的なものを求める部分とが共存しているわけですが、そのバランスをどのようにとっているのでしょうか。

JPD いまおっしゃったふたつの極のバランスをとることこそが、私たちが現場でやっている演出の仕事であると思います。このふたつ、つまりはっきり厳密に決められている部分と撮影をしているその瞬間に自発的に出てくるもの、その間のバランスを取り、緊張を生みだすことが私たちの仕事です。私たちはカメラを、次に何かが起こることが予想できる場所には置きません。 いま何かのアクションがあって、次にそのアクションが撮りやすい場所にカメラを動かさないのです。カメラはいつも、フレームとか中心がずれたところにあって、理想的な位置から比べれば少しその横の方に置いています。

 それから、テイクの数については、多い方だと思いますが、同じ状態で取り直しをすることはありません。40日間の撮影のあいだ中、自分自身でも驚くし、周りで働いてくれている人たちも驚くようなことを毎日見つけようとしました。たとえば、俳優と一緒にリハーサルをするときには、技術スタッフを呼びません。それでだいたい動きを決めて、空間の位置を決めて、 その後に技術の人たちを呼んで、準備を始めます。とにかく準備の段階ですべてを決めないようにしています。俳優の立ち位置を示すマーカーとかも絶対にしないし、カメラの動きも決めないで、いきなり撮らせたりします。それで撮りすすめて、あるテイクで満足できたとすると、今度は同じ場面でも別の撮り方はないかと考え始めます。但しそれは、前後の繋がりを考えた編集の目でやるのではなく、 なるべく撮影が自由にできるように考えています。ですから、この仕事もふたつの要素のバランスで成り立っているのです。

LD この映画では、まったくリハーサルをしないで撮ってしまったシーンがあります。それは父と子が一緒に歌を歌うシーンです。その撮影に入る前に、ふたりで歌わせてテストをして、その際にふたりが必ずしなければならない動作はいくつか決めました。ここはふたりで歌を歌っているうちに、共犯関係が生まれてくるというシーンなんですが、まったくリハーサルなしにカメラをセットして、 50人の見物客を入れて、間違っても、何があっても歌の最後まで撮ると決め、一回であのシーンをやらせました。そうやって彼らを緊張させた。これがまた私たちの別の仕事です。

JPD 確かにふたりともすごく緊張していていました。一緒に歌うのも初めてなら、カメラでそれを撮られるのもはじめての経験でしたからね。

 
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(upload:2001/01/05)
 
 
《関連リンク》
『イゴールの約束』レビュー ■
『ある子供』 レビュー ■
『少年と自転車』 レビュー ■
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ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ・インタビュー02 ■
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