そしてもうひとつ見逃せないのが、セラピーという要素である。この映画は、メグとハミルトンのカップルがセラピーを受けているところから始まる。登場人物のなかで、セラピーを受けているのは彼らだけだが、この映画全体も明らかに、ある種のセラピーという視点でとらえられている。それは必ずしも犬が飼い主に対してセラピー的な効果をもたらすという意味ではない。
主人公の愛犬家たちは、ドッグ・ショウというひのき舞台に向かって、愛犬に過剰なまでに自己を投影していく。それだけに、愛犬がドッグ・ショウで敗れたときのショックは計り知れないものがある。この映画のひとつの大きなテーマは、自分の分身である犬がドッグ・ショウで破れ、自分の存在が否定されたとき(大袈裟に響くかもしれないが、このドラマを観れば頷けるだろう)、
そこからどのように立ち直り、自分をどのように再発見することができるかというところにある。アルトマン的にいえば、ドッグ・ショウで敗れる瞬間とは、自分が犬と完全に同一化した舞台の呪縛からとかれる瞬間といえる。この映画では、擬似ドキュメンタリーとこのセラピーという視点が実にうまく絡み、独特のユーモアを生みだしているのだ。
シェリーとクリスティーは連覇の夢を断たれるが、敗北が彼女たちの関係を別な方向に発展させる。犬を愛するレズビアンのための雑誌を出して成功をおさめると同時に、彼女たちのアイデンティティを確認するのだ。スコットとステファンは、愛犬をモデルに懐かしの名作映画の世界をカレンダーで再現し、彼らを結びつけたものを確認する。腹話術を慰めにしてきたハーランは、
自己確認の旅に出る。要するに彼らは敗北を契機に、犬とは違う自分というものを再発見していくのだ。但し、メグとハミルトンのカップルは例外である。なんせ彼らは、いつもさかっている犬を飼い、自分たちもセックスに励むことだけで、問題が解決するのだから。
一方、ジェリーとクッキーの場合は、他の愛犬家とは違うかたちで自分を再発見する。特にジェリーである。生まれながらに足に深い悩みを抱えていた彼には、ハンデを克服したというささやかな自負がある。ところが、カップルが外の世界に出ていくと、彼はクッキーの男遍歴に圧倒され、常に一歩引かざるを得なかった。そんな彼は、彼女のアクシデントでハンドラーとして大舞台に立ち、自分の足で自分の存在を確認し、それを全米に向かって証明するのだ。
『ドッグ・ショウ』は、犬を通してユーモアに満ちた人間観察を展開し、アイデンティティを検証する映画なのである。
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