なぜ『(500)日のサマー』の脚本家コンビとポンソルトが組むことになったのかは定かではないが、ポンソルトの前作『スマッシュド』とこの映画には興味深い接点がある。
『スマッシュド』では、アルコール依存症から立ち直ろうとするヒロインの姿が描かれる。この映画のサッターも酒の問題を抱えている。彼は紳士服店でバイトしているが、仕事中にも自分のドリンクに密かに酒を足している。映画の終盤では、経営者から酒の問題を解決すると約束するなら、店をまかせたいと伝えられる。
2作品から浮かび上がるこの酒の問題には、別の意味が埋め込まれている。『スマッシュド』のヒロインは、酒を飲んで自分の境遇を人のせいにする母親に育てられ、酒を飲む男と結婚し、酒を飲む仲間たちに囲まれていた。だから、断酒は、ヒロインを閉じ込めてきた世界から自分を解き放つイニシエーション(通過儀礼)になる。
この映画のサッターが酒の問題を抱えているのは、父親の不在と無関係ではない。彼は父親に会いたいと思っているが、母親は父親のことを悪く言うばかりで、過去のことを語らず、連絡先を教えようとしない。もし、そのまま彼が成長すれば、自分の境遇を人のせいにする大人になっていただろう。
そこでより興味深いものになるのがエイミーとの関係だ。サッターは彼女に酒の味を覚えさえ、スキットルをプレゼントし、彼女を縛る家族からの自立をうながす。素直なエイミーは、それらをすべて喜んで受け入れ、変わっていく。だからサッターも自分と向き合わなければならなくなる。彼は父親に会うことで、苦しみながら自分が何者なのかを見極めていく。この映画も『スマッシュド』と同じように、呪縛から自己を解き放つイニシエーションの物語になっているのだ。 |