映画『ザ・ビーチ』に描かれるのは楽園≠めぐる冒険の物語だが、その楽園はかつての楽園とは違う。いや、もっと正確にいえば楽園そのものに違いはない。われわれを取り巻く消費社会が様々なかたちで人間の意識や感覚、感情に影響を及ぼし、その変化が映画の楽園に反映されているのだ。
この物語は、監督のダニー・ボイルと脚本家のジョン・ホッジのコンビにふさわしい題材だといえる。なぜなら彼らの魅力は、ブラックなユーモアとシュールな映像を駆使して、消費社会と人間の関係を浮き彫りにするところにあるからだ。
彼らの感性は、イギリス社会の変化と深い結びつきがある。たとえばわれわれ日本人にとって消費社会は、ほとんど完全な日常と化しているが、イギリスで育った彼らにとっては必ずしも日常ではない。生まれたときから現在のような消費社会を生きてきたわけではないからだ。
「揺りかごから墓場まで」という有名なスローガンが物語るように、イギリスはかつては福祉社会を理想としていた。しかし80年代にサッチャー政権がその理想を放棄し、国民が国に頼らず、自力で未来を切り開くことを奨励するようになった。その結果、競争意識が高まり、経済は活性化し、消費社会が拡大するようになったのだ。
つまり彼らにとって消費社会というのは、ある時期に突然、激しい勢いで広がりはじめた異質な世界でもあり、彼らはそれを相対化して見ることができる。たとえば、『トレインスポッティング』の冒頭にある主人公レントンのモノローグには、そんな社会の変化が反映されている。
「人生を選べ、キャリアを選べ、家族を、テレビを、洗濯機を、車を、CDプレイヤーを、電動缶切を選べ。自己中心のガキになることほどみっともないことはない。未来を選べ。だけど、それがいったい何なんだ?」
この「〜を選べ」という言葉は、国民に対するサッチャー政権の呼びかけをもじっている。消費社会が日常と化した世界であれば、自分が欲しいものを選ぶのは当たり前のことだが、転換期のイギリスではそれはある意味で特別なことだったのだ。
しかし経済は活性化したものの、人々は物欲にとりつかれ、利己的になっていった。「自己中心のガキ」という言葉にはそうした風潮に対するレントンの反発が現れている。なぜなら彼のような労働者階級は国から見離された弱者であり、未来を選びたくても何も選べる立場になかったからだ。
ところがドラマは皮肉な展開を見せる。経済が活性化するとドラッグも出回るようになり、レントンや仲間たちは否応なく消費社会に引き込まれていく。彼らは強烈なスコットランド訛りで話しながら、実質的には拡大する消費社会のなかで文化の独自性や仲間意識を見失っていく。そしてレントンは、
反発をおぼえていたはずの「自己中心のガキ」になって、金という未来を選ぶ。消費社会から排除されたはずの彼は、いつの間にか逆に消費社会にからめとられているのだ。
さらに、このコンビのデビュー作『シャロウ・グレイヴ』では、レントンとは異なる立場にある登場人物たちを通して、社会の急激な変化が見えてくる。主人公である3人の男女は、キャリアを選び、リッチな共同生活を送っているが、彼らの生活レベルをはるかに上回る大金と死体が転がり込んできたとき、
壮絶な殺し合いを始める。彼らは時代の波に乗っているかのように見えて、実は消費社会に対する免疫がなく、未熟さを露呈し、逆に消費社会に飲まれてしまうのだ。
『ザ・ビーチ』は、舞台や人物の設定などはこの2作とまったく違うが、物語の展開に共通点がある。この2作では、麻薬に絡む大金を手に入れるために仲間たちが協力し合い、それが自分たちのものになると仲間割れが起こるという展開を通して、消費社会と人間の関係の皮肉な転倒が見えてきた。
「ザ・ビーチ」でも、楽園をめぐって結束していたはずの仲間たちの関係が崩れ、そこから現代を象徴するような皮肉な転倒が見えてくるのである。 |