ザ・ビーチ
The Beach


2000年/アメリカ/カラー/119分/ドルビーSR・SRD/DTS/SDDS
line
(初出:『ザ・ビーチ』劇場用パンフレット)

 

 

 

消費社会に取り込まれた楽園

 

 映画『ザ・ビーチ』に描かれるのは楽園≠めぐる冒険の物語だが、その楽園はかつての楽園とは違う。いや、もっと正確にいえば楽園そのものに違いはない。われわれを取り巻く消費社会が様々なかたちで人間の意識や感覚、感情に影響を及ぼし、その変化が映画の楽園に反映されているのだ。

 この物語は、監督のダニー・ボイルと脚本家のジョン・ホッジのコンビにふさわしい題材だといえる。なぜなら彼らの魅力は、ブラックなユーモアとシュールな映像を駆使して、消費社会と人間の関係を浮き彫りにするところにあるからだ。

 彼らの感性は、イギリス社会の変化と深い結びつきがある。たとえばわれわれ日本人にとって消費社会は、ほとんど完全な日常と化しているが、イギリスで育った彼らにとっては必ずしも日常ではない。生まれたときから現在のような消費社会を生きてきたわけではないからだ。 「揺りかごから墓場まで」という有名なスローガンが物語るように、イギリスはかつては福祉社会を理想としていた。しかし80年代にサッチャー政権がその理想を放棄し、国民が国に頼らず、自力で未来を切り開くことを奨励するようになった。その結果、競争意識が高まり、経済は活性化し、消費社会が拡大するようになったのだ。

 つまり彼らにとって消費社会というのは、ある時期に突然、激しい勢いで広がりはじめた異質な世界でもあり、彼らはそれを相対化して見ることができる。たとえば、『トレインスポッティング』の冒頭にある主人公レントンのモノローグには、そんな社会の変化が反映されている。

「人生を選べ、キャリアを選べ、家族を、テレビを、洗濯機を、車を、CDプレイヤーを、電動缶切を選べ。自己中心のガキになることほどみっともないことはない。未来を選べ。だけど、それがいったい何なんだ?」

 この「〜を選べ」という言葉は、国民に対するサッチャー政権の呼びかけをもじっている。消費社会が日常と化した世界であれば、自分が欲しいものを選ぶのは当たり前のことだが、転換期のイギリスではそれはある意味で特別なことだったのだ。

 しかし経済は活性化したものの、人々は物欲にとりつかれ、利己的になっていった。「自己中心のガキ」という言葉にはそうした風潮に対するレントンの反発が現れている。なぜなら彼のような労働者階級は国から見離された弱者であり、未来を選びたくても何も選べる立場になかったからだ。

 ところがドラマは皮肉な展開を見せる。経済が活性化するとドラッグも出回るようになり、レントンや仲間たちは否応なく消費社会に引き込まれていく。彼らは強烈なスコットランド訛りで話しながら、実質的には拡大する消費社会のなかで文化の独自性や仲間意識を見失っていく。そしてレントンは、 反発をおぼえていたはずの「自己中心のガキ」になって、金という未来を選ぶ。消費社会から排除されたはずの彼は、いつの間にか逆に消費社会にからめとられているのだ。

 さらに、このコンビのデビュー作『シャロウ・グレイヴ』では、レントンとは異なる立場にある登場人物たちを通して、社会の急激な変化が見えてくる。主人公である3人の男女は、キャリアを選び、リッチな共同生活を送っているが、彼らの生活レベルをはるかに上回る大金と死体が転がり込んできたとき、 壮絶な殺し合いを始める。彼らは時代の波に乗っているかのように見えて、実は消費社会に対する免疫がなく、未熟さを露呈し、逆に消費社会に飲まれてしまうのだ。

 『ザ・ビーチ』は、舞台や人物の設定などはこの2作とまったく違うが、物語の展開に共通点がある。この2作では、麻薬に絡む大金を手に入れるために仲間たちが協力し合い、それが自分たちのものになると仲間割れが起こるという展開を通して、消費社会と人間の関係の皮肉な転倒が見えてきた。 「ザ・ビーチ」でも、楽園をめぐって結束していたはずの仲間たちの関係が崩れ、そこから現代を象徴するような皮肉な転倒が見えてくるのである。


◆スタッフ◆

監督
ダニー・ボイル
Danny Boyle
製作 アンドリュー・マクドナルド
Andrew Macdonald
脚本 ジョン・ホッジ
John Hodge
原作 アレックス・ガーランド
Alex Garland
撮影 ダリウス・コンジ、A.S.C.,A.F.C.
Darius Khondji, A.S.C.,A.F.C.
編集 マサヒロ・ヒラクボ
Masahiro Hirakubo
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
Angelo Badalamenti

◆キャスト◆

リチャード
レオナルド・ディカプリオ
Leonardo DiCaprio
サル ティルダ・スウィントン
Tilda Swinton
フランソワーズ ヴィルジニー・ルドワイヤン
Virginie Ledoyen
エチエンヌ ギヨーム・カネ
Guillaume Canet
ダフィ ロバート・カーライル
Robert Carlyle
キーティ パターソン・ジョセフ
Paterson Joseph
バッグズ ラース・アレンツ=ハンセン
Lars Arentz Hansen
(配給:20世紀フォックス)
 


 楽園を独占する住人たちは、明らかに矛盾を抱えている。彼らは自然のなかで完全に自給自足しているわけではない。ゲームに使う電池や調理した魚の生臭さを消し去るための石鹸、生理用品などを必需品としている。要するに、消費社会の便利なものは欲しいが、同じ社会が生みだす臭いものにはフタをして、逃避していたいのだ。

 しかも彼らの世界観は、自然のなかにいるにもかかわらずゲームに近い。彼らは、ゲームオーバーとしての人間の死はすんなり受け入れられるが、重傷を負って苦しみつづけるリアルな人間の存在には耐えられない。だから瀕死の仲間すら平気で追い払ってしまう。それはもはや自然を受け入れ、自分たちを解放する楽園とはいいがたい。

 彼らの楽園は地理的には遠く離れた秘密の場所にあるにもかかわらず、もっと身近なものを連想させる。消費社会が生みだした人工の楽園としてのサバービア(郊外住宅地)だ。人々は、犯罪や過密、騒音や汚染など様々な問題を抱える都市を離れて、清潔で閑静なサバービアに逃避したいと思う。腐敗の原因となる歓楽の要素を排除したサバービアなら平穏に暮らせる。 そこにはテレビのホームドラマのように毎日楽しいことばかりが起きるという神話があり、人々はそれを信じたいがために、個々の現実と画一的な幸福のイメージをすりかえてしまう。あるいは、この映画の楽園は、そんなサバービアに冒険の要素を加味したテーマパークというべきかもしれない。

 ということは、この映画の楽園の住人たちは、自然のなかにいるように見えて、実は消費社会に飲み込まれていることになる。なかでもそれが最も極端なかたちで現れるのが、主人公リチャードだ。彼は、サメを退治したり、険しいジャングルをひとり飛び回るなど、自然に同化し、克服しているかに見える。しかし彼の意識には皮肉な転倒がある。

 リチャードは、登場人物たちのなかで人一倍冒険を渇望しながら、内面では同じくらいそれを恐れてもいる。そんな彼は、サメに遭遇したり、ジャングルに置き去りにされて、恐怖や孤独を感じると、困難な状況から逃れるために、それらを過去に体験した安全な恐怖や孤独とすりかえてしまう。つまりゲームの世界だ。本人は自然に同化しているつもりだが、 実は逆に自然を自分のゲーム感覚に完全に取り込んでしまうのだ。その結果、怖いもの知らずとなった彼は、楽園を混乱に陥れていくことになる。これは何とも皮肉な転倒である。

 リチャードにとってこの楽園は、現実でありながらもはや現実ではない。それは悲劇的なことのようにも思えるが、同時に彼はそんな世界でしか芽生えなかったであろうロマンスを体験する。そして、このロマンスの記憶が、失われた楽園が存在したことを物語る証となるところに、切なさとともに、現代という時代の奇妙なリアリティを感じるのだ。


(upload:2001/03/21)
 
 
《関連リンク》
サッチャリズムの現実を対極から描くボイルとローチ――
『シャロウ・グレイヴ』『トレインスポッティング』『大地と自由』をめぐって
■
サッチャリズムとイギリス映画――
社会の急激な変化と映画の強度の関係
■
『トランス』 レビュー ■
『127時間』 レビュー ■
『28日後...』レビュー ■
『ミリオンズ』レビュー ■
『サバービアの憂鬱 アメリカン・ファミリーの光と影』 ■

 
 
 
amazon.co.jpへ●

ご意見はこちらへ master@crisscross.jp
 


copyright