この人間と自然に対するボイルの視点は、同じように実話を映画化したショーン・ペンの『イントゥ・ザ・ワイルド』(07)と対比してみると、その違いがより明確になるだろう。
『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公クリスは、大学を卒業すると貯金をみな寄付し、家族に何も告げずに旅立つ。物質主義と決別し、真の自由を求める彼は最終的にアラスカにたどり着き、孤独な生活を始める。この主人公に影響を及ぼしているのは、ヘンリー・D・ソローの『森の生活』だが、そこには以下のような記述がある。
「ぼくが森へ行ったのは思慮深く生活して人生の本質的な事実とだけ面と向かい合いたかったし、人生の教えることを学べないものかどうか確かめたかったし、死ぬときになって自分は生きていなかったなどと思いたくなかったからだ。(中略)ぼくは深みのある生活をし、人生の真髄をすべて吸収し、生活でないものはすべて払いのけられるようにたくましく、スパルタ人のように生き、広く根もとまで草を刈って生活を追いつめ、それを限界まで煮つめ、もしそれがみじめなものだったらそのみじめさをありのままつきとめて広く世に知らせたいと思ったのだ」
『127時間』のアーロンが自然に求めているのは、人生の本質的な事実ではなく快楽だ。しかし、予期せぬ突然の事故で状況が変わる。『ザ・ビーチ』を踏まえるなら、彼は状況をコントロールする力を失い、「治る」と「死ぬ」の狭間で自分と向き合うことになる。その結果、彼はなにに目覚めるのか。
これは事故とその顛末をリアリズムで表現するような作品ではない。ボイルはアーロンのなかで世界観や人生観がどのように変化していくのかを見つめる。人によってはソローの引用にあるような自然に覚醒する可能性もあるが、アーロンの場合は違う。
自然については、岩塊が大昔からずっと自分を待ち受けていたというような妄想を抱くに過ぎない。彼の意識は目の前の自然から遠く隔てられた日常へと飛ぶ。家族や別れた恋人のことを思い出し、自己中心的な人生を送ってきたことを後悔する。『ザ・ビーチ』の主人公が現実をゲームの世界に置き換えたように、テレビのトークショーのゲストを演じる。
この映画の冒頭と終盤では、群集がひしめく通勤ラッシュやスポーツ観戦の映像とかつて荒野に暮らした人々が残した壁画の映像がさり気なく対置されている。アーロンが生還を果たすことは、自分がどこで誰と生きるのかを明らかにすることでもあるのだ。 |