ポン・ジュノがこのマンガに関心を持ったのは、主人公が監禁されることによる空白の時間を韓国に置き換えたら、独自の世界が描けると思ったからだろう。
そして、パク監督も明らかにその空白の意味を理解してこの映画を作っている。主人公のオ・デスが拉致されるのが1988年で、それから15年ということは、彼は2003年に解放されることになる。これは『殺人の追憶』の空白の時間にかなりきれいに重なる。では、この空白がオ・デスにどのような作用を及ぼすことになるのか。
原作の物語でひとつのポイントになるのは、監禁から解放された主人公が、復讐だけを考えているのではなく、同時に自由を感じていることだ。監禁がなければ彼は間違いなく予定調和的な人生を送っていた。しかし監禁によって人生をやり直すことができる。そういう自由を感じる彼は、復讐にこり固まれば敵の思うツボだと考え、ルーズな復讐をすることを自分に誓う。
映画のオ・デスの場合は、妻を殺されているので、原作の主人公のような自由を感じることはないが、単に復讐に向かうだけではない注目すべき変化がある。オ・デスが拉致されるのは娘の誕生日で、酒癖の悪い彼は、プレゼントを抱えたまま酔って暴れ、警察で悪態をついている。しかし、強面の男たちに挟まれると、途端に小さくなる。彼に何事もなく、そのまま15年が経過していたら、どのような人間になっていたのか。
それは彼が解放されたときに見えてくるともいえる。彼は拉致されたのと同じ場所で解放される。しかしそこは、高層住宅が建ち並ぶニュータウンに変貌している。そして、彼が最初に遭遇するのは、その屋上から飛び降りようとしている自殺志願者である。その姿は、おそらく何事も起こらなかった場合の彼の15年後を示唆しているのだろう。つまり、彼は監禁によって変貌を遂げ、生きながらえるともいえる。
そして、ここから重要になるのが、空白から生み出される強烈な崩壊感覚だ。原作の主人公は、監禁部屋で毎日テレビと向き合いながら、こんなことを考える。「あらかじめ構成演出された映像と音声を逆算して、さらに想像力で《解析》することは果たして可能か」。解放された彼はその命題に挑み、駆け引きを繰り広げる。
しかしもちろん、オ・デスにはそんな認識はない。パク監督は、この命題を逆の意味で突き詰め、原作以上に構成演出されたテレビ的な世界にオ・デスを引き込む。そして何も知らずに突き進むオ・デスの前で、現実が一気に崩壊し、演出に隠された唯一の真実が明らかになるとき、彼は激しい衝撃に襲われる。
一見トリッキーに見えるこの展開からは、イ・スヨン監督の『4人の食卓』に通じるテーマが浮かび上がってくる。高層住宅が建ち並ぶニュータウンが重要な背景となるこの『4人の食卓』にも、主人公に記憶の欠落という空白がある。
そして、この主人公の記憶が甦るとき、彼を取り巻く現実は激しく揺らぎだす。その崩壊の感覚は、94年の聖水大橋の崩落や95年の三豊デパートの倒壊に代表されるような一連の建造物の崩壊事故、さらには、IMFの支援をあおぐことになった97年の経済危機など、急激な経済成長の後の様々な歪みと結びついている。『4人の食卓』の主人公は、そんな意味を持った崩壊感覚のなかで、ひとりの女を受け入れるか、偽りの世界に逃避するかの葛藤を強いられる。
『オールド・ボーイ』で、凄まじい崩壊感覚に襲われたオ・デスは、ある意味でそれ以上に狂おしい選択を迫られる。しかしこれを、単に周到に仕組まれた残酷な復讐の罠の結末とみるべきではないだろう。このドラマには、空白として切り取られた15年間に対する複雑な感情が封じ込められている。 |