病院で死にゆく重病の患者たちに対して、祈ることしかできない無力さに絶望したカトリックの神父サンヒョンは、アフリカで極秘に進められていた致死率100%の謎のウイルスに対するワクチン開発に協力し、自ら実験台となる。輸血された正体不明の血液によってヴァンパイアになった彼は、血への飢えを密かに重篤の患者によって満たすようになる。
そんなときサンヒョンは、幼なじみのガンウの妻テジュに出会い、魅了されていく。夫と姑に虐げられる生活からなんとか抜け出したいテジュも彼に強く惹かれ、ふたりは欲望と快楽に溺れ、ついにはガンウの殺害を企てる。
このテジュの登場以後の展開は、エミール・ゾラの『テレーズ・ラカン』をモチーフとしているが、文学的というよりは、フィルム・ノワールといってよいだろう。
“ヴァンパイア”と“フィルム・ノワール”はどちらも、欲望、肉体、暴力、死、影などを通してエロティシズムと深く結びついている。だから、ふたつのジャンルを巧みに絡み合わせたこの映画では、エロティシズムが際立つが、もちろん見所はそれだけではない。
自己と他者との関係というテーマに関心を持つ監督は少なくないが、誰もパク・チャヌクのようには描かない。
たとえば、『復讐者に憐れみを』『オールド・ボーイ』『親切なクムジャさん』という“復讐三部作”では、復讐する者とされる者という、お互いに分かり合えない二者、その双方の憎しみと痛みが大胆なアプローチと強烈な描写で執拗に掘り下げられていく。
『サイボーグでも大丈夫』には、自分がサイボーグだと信じる少女が登場するが、彼女に精神科の治療は通用しない。彼女を生かすためには、サイボーグとしての性能を向上させ、人間に近づけるしかない。
厳格に自己を律するカトリックの神父がヴァンパイアになるという『渇き』の発想は、アベル・フェラーラの世界を連想させるが、これは衝動の臨界における覚醒を描き出す作品ではない。自己と他者に向けられた鋭い眼差しが、独自の世界を切り開いていく。 |