この映画で、事件は雨の降る晩に起こり、村は北の南進に備えた灯火管制や防空訓練のために闇に包まれ、さらに周囲を威圧するようなセメント工場の不気味なシルエットが浮かび上がる。事件から広がる闇は、まさにそんな韓国そのものの状況を象徴している。しかも闇を次第に濃いものにしていく演出が実に巧みである。われわれが最初に目にする犯行現場や工場は、日中の光景であり、雨や灯火管制などとは結び付けられない。それらは、犯行が繰り返されていくに従って結び付き、闇が強調され、最後の犠牲者は、防空訓練で村の灯が消えていくのと重なるように命を奪われるのだ。
そして、このドラマと軍事政権や民主化運動との密接な繋がりも見逃すわけにはいかない。『光州事件から読む現代韓国』には、この連続殺人事件が始まった翌年の87年の重要な出来事とその意味が、以下のように記述されている。
「ソウル大学校の学生であった朴鍾哲は、指名手配中の先輩の潜伏先をききただすという目的で連行され、取調べ中、水拷問にかけられ死亡した。この事件は既存の反体制運動や市民運動の枠を超え、全国的に怒涛のような抗議闘争をよびおこしたが、その渦中、李韓烈という延世大学校の学生が催涙弾に直撃され、死線をさまようというさらなるハプニングが重なり、抗議の気運はいよいよもって高潮した。冒頭に書いたような新しい現象(光州巡礼のはじまりを意味する)は、その結果として勝ちとられた6・29民主化宣言(1987年)と、そこで確約された大統領直接選挙制による初の当選者・盧泰愚が、光州事件に対して「民主化のための努力」と前向きに評価したことなど、おおよそ87年を分水嶺とした大変化だったのである」。
このドラマにも、そうした流れが実に巧妙に反映されている。パクは、証拠を捏造したり、拷問を加えてでも容疑者から自白を得ようとするが、次第にマスコミや住民の反発が高まっていく。機動隊が絡むエピソードも効果的だ。映画の前半で、書類からまだ発見されていない犠牲者がいると推理したソは、機動隊の協力を得て、その遺体を発見する。中盤には、村の外部で機動隊とデモ隊が衝突する場面が挿入される。そして後半、刑事たちは、間違いなく犯行が行われる手がかりをつかみ、機動隊の出動を要請するが、デモの鎮圧のために出払ってしまい、犯行を防ぐことができない。しかし、韓国社会と事件の関わりが最も際立つのは、第一の容疑者クァンホが死に至るエピソードだろう。
パクとソは、クァンホが容疑者ではなく目撃者であることに気づき、焼肉屋に駆けつける。そこでは容疑者に暴行したために謹慎を命じられたパクの相棒チョが酒をあおっている。テレビからは、非道な拷問で告発された刑事のニュースが流れ、不満を抱えた客たちがその刑事に罵声を浴びせる。それを耳にしたチョは、突然彼らに襲いかかり、店は修羅場と化す。パクとソは、その混乱に巻き込まれる。事件の解決のために必死に目撃者を確保しようとする彼らは、店にいた学生たちの目には、職権を濫用し、罪もない人間を弾圧する権力の手先と映り(そういうことが実際にあったわけだが)、激しい抵抗にあい、貴重な目撃者を失ってしまうのだ。
映画の冒頭にあった用水路の暗がりは、こうした要素が見事に絡み合うことによって、いつしか出口が見えないトンネルの巨大な闇に変貌している。その圧倒的な闇に打ちひしがれるのは、それ以前に自分のノートを放棄しているパクではなく、「書類はウソをつかない」という確信が揺らぎつつあるソの方だ。この圧倒的な闇は、もし仮に、常軌を逸した彼が容疑者を射殺したとしても、それで消え去るようなものではない。なぜなら、それは個人の心の闇ではなく、その時代を生きた人々が共有した歴史の闇であるからだ。
映画のラストは、事件の記憶が薄れつつある2003年のエピソードだが、パクの変貌ぶりにはなかなか印象深いものがある。メガネにスーツという出で立ちは、映画の冒頭で彼が尋問した身なりのよい人物のことを思い出させる。ワゴンの積荷に、"Green
Power Juice Extractor"というの文字があるように、彼は、ジュース搾り機を販売している。刑事の彼は、アメリカから送られてきたDNA鑑定の結果を記した書類を読むことができなかった。いまでも英語は読めないかもしれないが、馴染んではいるだろう。
彼は仕事の途中で、事件が始まった用水路に立ち寄り、映画の冒頭と同じように、その暗がりを覗き込む。だが、暗がりのイメージは、まったく違う。単にそこにはもはや遺体がないということではない。カメラは冒頭では、暗がりだけをとらえ、蓋が途切れた先にある出口は見せなかった。映画の中盤で新しい捜査課長が覗いたときも、見せなかった。しかし、この場面では、暗がりの先に視線が向かい、光のあたる水路が見える。それは、歴史の暗闇を通り過ぎてしまったことを意味する。たとえ、犯人が生きていても、それは個人の闇でしかない。このラストは、歴史の終わり、歴史とそれ以後の時間との断層を浮き彫りにしているのだ。 |