殺人の追憶
Memories of Murder


2003年/韓国/カラー/130分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:「Cut」2004年3月号 映画の境界線31より抜粋のうえ加筆)

 

 

かつて人々が共有した
歴史の重さを象徴する圧倒的な闇

 

 ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』の冒頭には、こんな一文が浮かび上がる。「この映画は1986年から1991年の間、軍事政権のもと民主化運動に揺れる韓国において実際に起きた未解決連続殺人事件をもとにしたフィクションです」。映画のもとになったのは、「ファソン華城連続殺人事件」。86年から91年にかけて、ソウルから南に約50キロ離れた農村の半径2キロ以内で起きた10件に及ぶ連続強姦殺人事件だ。その捜査には180万人の警官が動員され、3000人の容疑者が取り調べを受けたという。

 映画は、86年10月、稲穂が頭をたれ、子供たちが戯れるのどかな農村の風景から始まる。だが、広々としたその田の用水路から、手足を縛られ、頭部にガードルを被せられた若い女性の死体が発見され、やがて連続殺人事件に発展していく。事件の捜査の先頭に立つのは、地元警察のパク刑事とソウルからやって来たソ刑事。叩上げの経験と強引な手段で勝負するパクと資料を重視して事件を分析するソは、時に激しく対立しながら捜査を進め、有力な容疑者も浮かび上がってくるが、決定的な証拠をつかむことはできない。彼らの口癖やモットーである「俺の目を見ろ」と「書類はウソをつかない」は、最後には完全に効力を失ってしまう。

 この映画の素晴らしさは、個々のエピソードやディテールなど、ドラマを構成するすべての要素が見事に収斂し、言葉では表現しがたいとてつもなく深い闇を描き出すところにある。映画は、パクが身をかがめ、その部分だけ蓋をされて暗がりとなっている用水路を覗き込むところから始まる。彼は、近くに落ちていたガラスの破片を拾い、それに太陽の光を反射させて犠牲者の状態を確認する。用水路の暗がり、それはまだささやかな闇である。しかし、ドラマの展開とともに、その闇は広がり、深くなっていく。

 パクは、普段から人を見る目があると豪語している。映画は、その眼力がどのようなものであるのかを、ユーモアを交えながら描いていく。最初の事件が起こったあとには、彼が様々な男たちを尋問する場面があるが、メガネにスーツといった身なりの整った人物には、いくぶんへりくだり、人相風体がよろしくない人物には、横柄な態度をとる。彼は、尋問した人物の写真を撮り、メモとともにノートに貼り付けているが、どうも人相風体のよろしくない人物だけをコレクションしているように見える。そんな彼は同僚から、刑事課の片隅で肩を並べているふたりの男たち、強姦の加害者と自力で彼を捕らえた被害者の兄を見分けられるかと問われる。ふたりの外見にはほとんど違いがない。さらに、ソウルから派遣されたソ刑事を、挙動不審な男とみなして飛びかかり、(刑事なら)人を見る目がなくてどうするとたしなめられる。

 このドラマには、三人の容疑者が登場するが、皮肉なことにその人相風体は次第に整い、知的なものになっていく。それは単なるユーモアではなく、社会の変化が反映されている。焼肉屋の倅である第一の容疑者クァンホは、村人たちの噂から浮上してくる。軽度の知的障害があり、しかも頬に火傷によるケロイドがある彼は、パクの眼鏡に適う。舞台となる村が昔ながらの閉鎖的な世界であれば、そんな除け者ばかりが次々と炙り出されることになっただろう。だが、村は変わりつつある。

 パクとソは、暗闇に紛れて犯行現場に現われ、自慰に耽る男を目撃し追跡する。男が逃げ込んだ採掘場には、同じ黒の作業服を着たたくさんの労働者たちが働いている。刑事たちはそのなかから何とか男を見分けるが、この第二の容疑者は、エロ本よりも刺激的だったからと説明する。韓国の経済成長はこの村にも波及し、セメント工場を中心に工業化が進んでいる。そこには外部から労働者が流れ込み、何を考えているのかわからないおびただしい数の人間たちが存在している。第三の容疑者も、除隊して、工場の事務の仕事についている男だ。しかし、それだけなら闇は、あくまで個人の心の闇である。

 そこで引用したいのが、真鍋祐子著『光州事件で読む現代韓国』だ。80年5月に、軍部が民主化運動を武力で弾圧し、民間人に多くの犠牲者を出した光州事件から現代韓国を浮き彫りにしていく本書には、こんな記述がある。「冷戦構造下での「北の脅威」を前にした重化学工業化政策は、結果として農業などの第一次産業に多大な犠牲を強いることとなった。その意味で、農漁村とは分断の矛盾が収斂される場であり(後略)」


◆スタッフ◆

監督   ポン・ジュノ
Bong Joon-Ho
脚本 ポン・ジュノシム・ソンボ
Bong Joon-Ho, Shim Sung-bo
撮影 キム・ヒョング
Kim Hyeong-Gyu
編集 キム・ソンミン
Kim Seon-Min
音楽 岩代太郎
Taro Iwashiro

◆キャスト◆

パク・トゥマン   ソン・ガンホ
Song Gang-Ho
ソ・テユン キム・サンギョン
Kim Sang-Kyung
チョ・ヨング キム・レハ
Kim Roe-Ha
捜査課長 ピョン・ヒボン
Byeon Hie-Bong
新捜査課長 ソン・ジェホ
Song Jae-Ho
ペク・クァンホ パク・ノシク
Park No-Shik
パク・ヒョンギュ パク・ヘイル
Park Hae-Il
ソリョン チョン・ミソン
Jeon Mi-Seon

(配給:シネカノン)
 
 


 この映画で、事件は雨の降る晩に起こり、村は北の南進に備えた灯火管制や防空訓練のために闇に包まれ、さらに周囲を威圧するようなセメント工場の不気味なシルエットが浮かび上がる。事件から広がる闇は、まさにそんな韓国そのものの状況を象徴している。しかも闇を次第に濃いものにしていく演出が実に巧みである。われわれが最初に目にする犯行現場や工場は、日中の光景であり、雨や灯火管制などとは結び付けられない。それらは、犯行が繰り返されていくに従って結び付き、闇が強調され、最後の犠牲者は、防空訓練で村の灯が消えていくのと重なるように命を奪われるのだ。

 そして、このドラマと軍事政権や民主化運動との密接な繋がりも見逃すわけにはいかない。『光州事件から読む現代韓国』には、この連続殺人事件が始まった翌年の87年の重要な出来事とその意味が、以下のように記述されている。

「ソウル大学校の学生であった朴鍾哲は、指名手配中の先輩の潜伏先をききただすという目的で連行され、取調べ中、水拷問にかけられ死亡した。この事件は既存の反体制運動や市民運動の枠を超え、全国的に怒涛のような抗議闘争をよびおこしたが、その渦中、李韓烈という延世大学校の学生が催涙弾に直撃され、死線をさまようというさらなるハプニングが重なり、抗議の気運はいよいよもって高潮した。冒頭に書いたような新しい現象(光州巡礼のはじまりを意味する)は、その結果として勝ちとられた6・29民主化宣言(1987年)と、そこで確約された大統領直接選挙制による初の当選者・盧泰愚が、光州事件に対して「民主化のための努力」と前向きに評価したことなど、おおよそ87年を分水嶺とした大変化だったのである」

 このドラマにも、そうした流れが実に巧妙に反映されている。パクは、証拠を捏造したり、拷問を加えてでも容疑者から自白を得ようとするが、次第にマスコミや住民の反発が高まっていく。機動隊が絡むエピソードも効果的だ。映画の前半で、書類からまだ発見されていない犠牲者がいると推理したソは、機動隊の協力を得て、その遺体を発見する。中盤には、村の外部で機動隊とデモ隊が衝突する場面が挿入される。そして後半、刑事たちは、間違いなく犯行が行われる手がかりをつかみ、機動隊の出動を要請するが、デモの鎮圧のために出払ってしまい、犯行を防ぐことができない。しかし、韓国社会と事件の関わりが最も際立つのは、第一の容疑者クァンホが死に至るエピソードだろう。

 パクとソは、クァンホが容疑者ではなく目撃者であることに気づき、焼肉屋に駆けつける。そこでは容疑者に暴行したために謹慎を命じられたパクの相棒チョが酒をあおっている。テレビからは、非道な拷問で告発された刑事のニュースが流れ、不満を抱えた客たちがその刑事に罵声を浴びせる。それを耳にしたチョは、突然彼らに襲いかかり、店は修羅場と化す。パクとソは、その混乱に巻き込まれる。事件の解決のために必死に目撃者を確保しようとする彼らは、店にいた学生たちの目には、職権を濫用し、罪もない人間を弾圧する権力の手先と映り(そういうことが実際にあったわけだが)、激しい抵抗にあい、貴重な目撃者を失ってしまうのだ。

 映画の冒頭にあった用水路の暗がりは、こうした要素が見事に絡み合うことによって、いつしか出口が見えないトンネルの巨大な闇に変貌している。その圧倒的な闇に打ちひしがれるのは、それ以前に自分のノートを放棄しているパクではなく、「書類はウソをつかない」という確信が揺らぎつつあるソの方だ。この圧倒的な闇は、もし仮に、常軌を逸した彼が容疑者を射殺したとしても、それで消え去るようなものではない。なぜなら、それは個人の心の闇ではなく、その時代を生きた人々が共有した歴史の闇であるからだ。

 映画のラストは、事件の記憶が薄れつつある2003年のエピソードだが、パクの変貌ぶりにはなかなか印象深いものがある。メガネにスーツという出で立ちは、映画の冒頭で彼が尋問した身なりのよい人物のことを思い出させる。ワゴンの積荷に、"Green Power Juice Extractor"というの文字があるように、彼は、ジュース搾り機を販売している。刑事の彼は、アメリカから送られてきたDNA鑑定の結果を記した書類を読むことができなかった。いまでも英語は読めないかもしれないが、馴染んではいるだろう。

 彼は仕事の途中で、事件が始まった用水路に立ち寄り、映画の冒頭と同じように、その暗がりを覗き込む。だが、暗がりのイメージは、まったく違う。単にそこにはもはや遺体がないということではない。カメラは冒頭では、暗がりだけをとらえ、蓋が途切れた先にある出口は見せなかった。映画の中盤で新しい捜査課長が覗いたときも、見せなかった。しかし、この場面では、暗がりの先に視線が向かい、光のあたる水路が見える。それは、歴史の暗闇を通り過ぎてしまったことを意味する。たとえ、犯人が生きていても、それは個人の闇でしかない。このラストは、歴史の終わり、歴史とそれ以後の時間との断層を浮き彫りにしているのだ。

《参照/引用文献》
『光州事件で読む現代韓国』真鍋祐子●
(平凡社、2000年)

(upload:2005/04/10)
 
 
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