『預言者』では、傷害罪で服役した19歳のアラブ系の若者マリクが、刑務所という隔離された空間で、生き延びるために囚人の命を奪い、処世術を身につけ、権力者へと変貌を遂げて外の世界に戻る。『君と歩く世界』では、両脚を失い、心を閉ざしたシャチの調教師ステファニーが、格闘家を目指す男アリとの交流を通して変化し、見られることに快感を覚えていた自己を破壊し、再生を果たす。
『ディーパンの闘い』では、ディーパンを名乗り、他人と家族を偽装して内戦下のスリランカからフランスに逃れた元兵士シバダーサンが、団地での生活を再び暴力によって脅かされる。そんな主人公が闘いに身を投じることは、兵士シバダーサンに戻るのではなく、ディーパンとしての自己を確立するための試練となり、それが偽装家族を家族に変える。
そうした神話的冒険は、パトリック・デウィットの小説『シスターズ・ブラザーズ』を映画化した本作にも引き継がれている。オーディアールがイニシエーションをどのように意識し、独自の世界を切り拓いているのかは、原作と対比してみればよくわかる。共同で脚本も手がけている彼は、原作のふたつの部分を大きく変更している。
まずシスターズ兄弟の関係だ。原作では、チャーリーが兄で、イーライが弟だが、映画では逆になっている。どちらが兄でも弟でも大した違いはないと思うかもしれないが、そこにチャーリーの父親殺しが絡んでくると、兄弟の関係が大きく変わる。
原作では、チャーリーが父親を殺したとき、イーライはまだ幼く、しかも外で遊んでいたため家から響く激しい物音をおぼろげに覚えているに過ぎない。これに対して映画では、事件の状況が詳しく語られるわけではないが、年上のイーライには、弟と父親の間に起こったことがその時点ですべてわかっている。だから後半で、「兄である俺がやるべきだった」とウォームに打ち明ける。つまり、兄弟がそれぞれに父親殺しという重い過去を背負っている。
オーディアールが、原作を脚色するにあたって父親と息子の関係を強く意識していたことは、もうひとつの原作との違いからも明らかになる。映画では、モリスとウォームの人物像に大幅な肉付けが施されている。なかでも筆者が注目したいのが、モリスが提督を裏切り、ウォームと行動をともにする理由だ。原作のモリスは、これまで「家畜のように使役され、餌を与えられてきた」ことを恥じ、自分の人生を生きようと思う。しかし映画では、その理由が以下のように語られる。
「俺が家を出たのは家族憎しからだ。特に父を軽蔑してた。俺は父のすべてが嫌いだった。解放されたと思ってたが、君の話で分かったよ。俺はずっと自由に生きてきたと思ってた。自分の意見があるとね。でも父への憎しみに操られてた。35歳の俺の人生は、まるで弾切れの銃だ」
そんなモリスと父親の関係が、兄弟と父親のそれと響き合うように思うのは、おそらく筆者だけではないだろう。この兄弟が父親から解放されたのかといえば、決してそうではない。チャーリーがうなされるふりをして兄をからかう場面は、彼が実際に悪夢に苦しめられていることを示唆している。イーライもまた、蜘蛛を飲み込んで体調を崩したときに、父親の悪夢にうなされる。
さらに、兄弟が父親から解放されていないことと、彼らが提督のために働いていることも無関係ではない。本作の導入部には、提督の屋敷で提督とチャーリーが話をする様子を窓越しにとらえたショットが挿入されるが、ふたりの姿は父親と息子を連想させる。チャーリーが父親について語る「イカれた親父の悪い血が俺たちにも流れている。あの血のお陰で殺し屋をやれる」という台詞も、父親と提督を結びつける。
「父への憎しみに操られていた」というモリスの言葉を踏まえるなら、兄弟は、父親の亡霊ともいえる提督に操られている。だから、提督との関係を断ち切ることが、重要なイニシエーションになる。ウォームやモリスと手を組んだ兄弟の運命には、まさに「自らが築き上げ暮らしている世界の破壊、その一部となっている自己の破壊」を見ることができるだろう。
それぞれに変容を遂げ、父親の亡霊を消し去った兄弟は、世界と新たな関係を構築し、黄金よりも大切な生活を取り戻すことになる。 |