[ストーリー] 1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。
そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た――。
[以下、本作のレビューになります]
サーミ人の血を引く女性監督アマンダ・シェーネルは、プレスに収められたインタビューで以下のように語っている。
「存命している老齢の親類の中には、自分もサーミ人なのにサーミを嫌う者がいます。つまり、アイデンティティを変えた者と、留まった者との対立が、私の一族の中にまだあるのです」
シェーネルの長編デビュー作『サーミの血』は、そんな対立の源にあるものを独自の視点と表現で掘り下げていく作品といえる。エレ・マリャという少女の成長を描く彼女のスタイルは、明らかに一般的な物語の語り方とは違う。誰もがすぐに気づくのは、大胆な省略だろう。エレ・マリャからクリスティーナになったヒロインは、その後どんな人生を送ったのか。エレ・マリャはなぜ進学や教師になることを望むようになったのか。どのようにスウェーデン語を習得したのか。この映画では、一般的な物語であれば盛り込まれるであろう情報が欠落している。
では、シェーネルはこの少女を通して何を描いているのか。本人が意識してそうしたのかどうかは定かではないが、この映画には、イニシエーション(通過儀礼)を描く神話的な物語の定型が取り込まれている。神話学者ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で書いているように、神話的冒険は、「分離」、「イニシエーション」、「帰還」という過程をたどる。
この映画では、エレ・マリャが父親の形見であるマーキング・ナイフを授けられ、旅立つ。寄宿学校で学ぶ彼女は、普段の生活から隔絶される。前掲同書によれば、イニシエーションでは、「自らが築き上げ暮らしている世界の破壊、その一部となっている自己の破壊」が行われる。それは、エレ・マリャにも当てはまる。だが、神話的冒険の定型は崩れていく。本来なら破壊のあとには再建があり、帰還が完了するが、彼女はまったく別の世界に向かうからだ。
しかし、それがエレ・マリャの神話的な物語の結末ではない。この映画を構成する現在と過去のパートは、象徴的な表現で密接に結びつけられ、全体が神話的な物語になっている。そんな構成には、説明的な表現に頼らずに、重要なことを伝えようとするシェーネルの姿勢がよく表れている。
クリスティーナの帰郷が描かれる導入部には、注目すべき点がふたつある。ひとつは、彼女の動作だ。冒頭で息子が迎えにきたとき、彼女は物思いに耽るように遠くを見つめ、左耳に手をやる。故郷でホテルに泊まったときも、顔を洗ったあとで、左耳にかかる髪を気にしている。そしてもうひとつは、トナカイのマーキングを見に行く息子と孫娘の誘いを、彼女が無視することだ。その時点では、ふたつの事柄はまったく無関係に見えるが、やがて繋がっていることがわかる。 |