サーミの血
Sameblod / Sami Blood


2016年/スウェーデン=ノルウェー=デンマーク/南サーミ語・スウェーデン語/カラー/108分/スコープサイズ/DCP
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(初出:『サーミの血』劇場用パンフレット)

 

 

サーミの血を引くスウェーデン出身の新鋭女性監督
自らのルーツに迫るアマンダ・シェーネルの長編デビュー作

 

[ストーリー] 1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。

 そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た――。

[以下、本作のレビューになります]

 サーミ人の血を引く女性監督アマンダ・シェーネルは、プレスに収められたインタビューで以下のように語っている。

「存命している老齢の親類の中には、自分もサーミ人なのにサーミを嫌う者がいます。つまり、アイデンティティを変えた者と、留まった者との対立が、私の一族の中にまだあるのです」

 シェーネルの長編デビュー作『サーミの血』は、そんな対立の源にあるものを独自の視点と表現で掘り下げていく作品といえる。エレ・マリャという少女の成長を描く彼女のスタイルは、明らかに一般的な物語の語り方とは違う。誰もがすぐに気づくのは、大胆な省略だろう。エレ・マリャからクリスティーナになったヒロインは、その後どんな人生を送ったのか。エレ・マリャはなぜ進学や教師になることを望むようになったのか。どのようにスウェーデン語を習得したのか。この映画では、一般的な物語であれば盛り込まれるであろう情報が欠落している。

 では、シェーネルはこの少女を通して何を描いているのか。本人が意識してそうしたのかどうかは定かではないが、この映画には、イニシエーション(通過儀礼)を描く神話的な物語の定型が取り込まれている。神話学者ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で書いているように、神話的冒険は、「分離」、「イニシエーション」、「帰還」という過程をたどる。

 この映画では、エレ・マリャが父親の形見であるマーキング・ナイフを授けられ、旅立つ。寄宿学校で学ぶ彼女は、普段の生活から隔絶される。前掲同書によれば、イニシエーションでは、「自らが築き上げ暮らしている世界の破壊、その一部となっている自己の破壊」が行われる。それは、エレ・マリャにも当てはまる。だが、神話的冒険の定型は崩れていく。本来なら破壊のあとには再建があり、帰還が完了するが、彼女はまったく別の世界に向かうからだ。

 しかし、それがエレ・マリャの神話的な物語の結末ではない。この映画を構成する現在と過去のパートは、象徴的な表現で密接に結びつけられ、全体が神話的な物語になっている。そんな構成には、説明的な表現に頼らずに、重要なことを伝えようとするシェーネルの姿勢がよく表れている。

 クリスティーナの帰郷が描かれる導入部には、注目すべき点がふたつある。ひとつは、彼女の動作だ。冒頭で息子が迎えにきたとき、彼女は物思いに耽るように遠くを見つめ、左耳に手をやる。故郷でホテルに泊まったときも、顔を洗ったあとで、左耳にかかる髪を気にしている。そしてもうひとつは、トナカイのマーキングを見に行く息子と孫娘の誘いを、彼女が無視することだ。その時点では、ふたつの事柄はまったく無関係に見えるが、やがて繋がっていることがわかる。


◆スタッフ◆
 
監督/脚本   アマンダ・シェーネル
Amanda Kernell
撮影監督 ソフィーア・オルソン、ペトルゥス・シェーヴィーク
Sophia Olsson, Petrus Sjovik
編集 アンデルス・スコウ
Anders Skov
音楽 クリスチャン・エイドネス・アナスン
Kristian Eidnes Andersen
 
◆キャスト◆
 
エレ・マリャ   レーネ=セシリア・スパルロク
Lene Cecilia Sparrok
ニェンナ ミーア=エリーカ・スパルロク
Mia Erika Sparrok
クリスティーナ/エレ・マリャ マイ=ドリス・リンピ
Maj-Doris Rimpi
ニクラス ユリウス・フレイシャンデル
Julius Fleischanderl
オッレ オッレ・サッリ
Olle Sarri
教師 ハンナ・アルストロム
Hanna Alstrom
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(配給:アップリンク)
 

 クリスティーナの回想は、エレ・マリャが妹にマーキングの手本を示すために、妹のトナカイの耳に所有権の証となる刻み目を入れる場面から始まる。そのマーキングは、この神話的な物語の鍵を握る象徴になる。なぜなら、それがエレ・マリャの運命を決定的に変えることになるからだ。

 寄宿学校の周辺に暮らす若者から動物呼ばわりされたエレ・マリャは、マーキング・ナイフで彼に挑みかかろうとする。しかし、大切なナイフを奪われ、左耳に刻み目を入れられ、動物の烙印を押されてしまう。それは彼女にとってこれ以上ない屈辱であり、マーキングの呪縛から逃れようともがくことで、神話的冒険の定型が大きく歪められていく。行き詰まった彼女は、故郷に戻り、自分のトナカイを手にかける。神話の次元から見れば、トナカイを殺すことは、動物の烙印を押された自分を殺すことであり、彼女が完全にクリスティーナに生まれ変わることを意味する。

 そして、そんな回想を踏まえて年老いたクリスティーナを見るとき、彼女の印象が変わってくる。彼女が左耳を意識することは、心の痛みがまだ消えていないことを示唆する。痛みの研究者デイヴィド・E・モリスは『痛みの文化史』で、痛みが「私たちのありのままの姿をあきらかにする」と書いている。彼女が故郷に戻るのは、そんな痛みと無関係ではないだろう。

 さらに、先ほどはあえて言及しなかったが、葬儀という要素にも注目しなければならない。葬儀もまた神話的な物語で重要な位置を占めている。映画の導入部でクリスティーナは妹の葬儀に参列するが、妹を見送ることはできない。彼女はクリスティーナであって、エレ・マリャではないからだ。しかしその場で、生前の妹が姉の分までトナカイのマーキングを行っていたのを知ることには意味があるように思える。それが彼女の心に響くからこそ、最終的に葬儀が、クリスティーナのなかのエレ・マリャが目覚める儀式となるのだろう。

 人の営みの根源にあるものを、象徴を駆使して描き出す神話的な物語は、歴史のように時代や時間に縛られない。それは遠い過去であれ現在であれ、営みがあるところに遍在し、私たちにダイレクトに訴えかけてくる。シェーネルは、事実をヒントにそんな神話的な物語を紡ぎ出し、差別にさらされてきたサーミ人の内面の葛藤や痛みを見事に炙り出している。

《参照/引用文献》
『千の顔をもつ英雄[新訳版]』上・下 ジョーゼフ・キャンベル●
倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳(早川書房、2015年)
『痛みの文化史』デイヴィド・B・モリス●
渡邉勉・鈴木牧彦訳(紀伊國屋書店、1998年)

(upload:2018/08/26)
 
 
《関連リンク》
『サーミの血』 公式サイト

 
 
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