たとえば、両脚を失ったシャチの調教師が、ある出会いをきっかけに再び力強く歩み出す物語といわれたら、どんな作品を想像するだろうか。お涙頂戴の映画だと思う人は少なくないはずだ。しかし、ジャック・オディアール 監督の『君と歩く世界』は、いい意味で私たちの予想を裏切ってみせる。それは、アリという人物の存在によるところが大きい。
私たちは、そのアリがステファニーをクラブから自宅まで送るところで、彼がどこか普通とは違っていることに気づく。彼は腫れた手を氷で冷やすために家に上がりたいという。そこで、彼がいるからといわれてしまえば、普通は外で待つしかないだろう。ところがアリは、「だから?」と問い返す。家に上がっても、他人の視線など気にもとめない。そんな違いがステファニーの記憶に残らなければ、ふたりの関係が発展することもなかっただろう。
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両脚を失ったステファニーは、アリのペースに巻き込まれていく。彼は自己の欲望に忠実に生き、迷いなく行動する。泳ぎたければ泳ぐ。ただそれだけだ。ステファニーには、もう一度泳いでみたいが、脚を人目に晒したくはないなどと迷っている暇はない。脚を失う前の彼女は、人に見られることに快感を覚えていた。だから見られることを怖れ、部屋にこもっていた。しかし、アリと共有する時間のなかでは、脚を意識することは、極端にいえばナルシズムに浸っているだけのようにすら思えてくる。
アリは社会の底辺の過酷な世界を生き、非合法の賭博試合というさらに過酷な世界を生きようとする。確かにそんな環境では、人目を気にしたり、迷っている余裕などはないはずだ。しかしこの映画は、アリを通して経済的に追いつめられる苦しい生活や闘争心がむき出しになるヒリヒリするような世界だけを描いているわけではない。
そこでぜひとも注目したいのが音楽だ。この映画は、ボン・イヴェールのセカンド・アルバム『ボン・イヴェール』に収められた<Wash>で始まり、デビュー・アルバム『フォー・エマ・フォーエヴァー・アゴー』に収められた<The Wolves(Act I and II)>で終わる。映画に透明感のある独特のトーンをもたらしているこの二曲には、どんな意味が込められているのか。
筆者は、シンガーソングライター、ジャスティン・ヴァーノンのプロジェクトであるボン・イヴェールが生まれた背景を振り返っておいても無駄ではないと思う。バンドの分裂や彼女との破局、体調不良などの重荷を背負ったヴァーノンは、2006年の冬に父親が所有するウィスコンシンの山小屋にひとりでこもった。ギターやドラム、ホーン、マイクを持ち込んでいた彼は、雪に閉ざされた森のなかで、ボン・イヴェールのデビュー・アルバムになる音楽を作り上げた。つまりこれは、孤独のなかで自己と向き合うことから生まれた音楽で、そこに内省的な響きがあることは偶然ではない。