両脚を失ったシャチの調教師が、ある出会いをきっかけに再び力強く歩み出す物語といわれたら、お涙頂戴の映画だと思う人は少なくないはずだ。だが、ジャック・オディアール監督の『君と歩く世界』は、そんな先入観をあっさりと覆してみせる。
ヒロインのステファニーが出会ってしまう男アリがとにかく普通ではない。同情の目で見られ、腫れ物にさわるように扱われることに慣れている彼女には、おそらくとんでもない衝撃だろう。
車椅子の彼女を海辺に連れ出すと、いきなり「泳ぎたい、君もどう?」とくる。彼女が人目を気にしていると、さっさとひとりで海に入ってしまう。だから彼女も本当に泳ぎたいなら、自分に正直になるしかない。
セックスも同じだ。性欲はあるが機能するかわからないと告白した途端に、「ヤるか?」とくる。お涙頂戴の要素など入り込む余地もない。彼と一緒にいると、彼女が脚を気にすることが、まるでナルシズムに酔っているだけのような錯覚に陥りそうになるほどなのだ。
アリは息子のサムと社会の底辺に生き、屈強な男たちと渡り合う非合法の賭博試合にのめり込んでいく。確かにそんな世界では、人目を気にしたり、迷っている余裕などない。
しかしこの映画は、アリを通して底辺の生活や闘争心がむき出しになるヒリヒリするような世界だけを描いているわけではない。
そこで注目したいのが音楽だ。アリの親子が映し出される冒頭ではボン・イヴェールが流れ、ラストもボン・イヴェールで締め括られる。その内省的な響きは、映画がアリの内面も見つめていることを示唆しているといっていい。
この男は決して野生児でもなければ、愛を知らない男でもない。おそらくは何かの事情で愛を怖れ、心を閉ざしている。感情を締め出しているからこそ、生を実感できる激しい格闘に引きつけられるのだ。
しかしそうはいっても、思わぬところで心は揺さぶられる。賭博試合で敗北寸前まで追いつめられたときに、ステファニーがひとりで堂々と立っているのを目にすれば興奮し、力が漲る。そして、心を引き裂かれるほどの痛みに襲われることが彼を変える。
これは、愛を見失った男が、心の痛みを通して再び愛に目覚めるまでの内的な旅の物語でもある。 |