マイケル・ウィンターボトムの『キラー・インサイド・ミー』は、ノワール小説の帝王ジム・トンプスンの同名小説『The Killer Inside Me』の映画化だ(邦訳には、『内なる殺人者』と『おれの中の殺し屋』がある)。
舞台は1950年代の西テキサスの小さな田舎町。保安官助手のルー・フォードは、幼なじみの女性教師エイミーと気ままに付き合い、その勤勉さで住民たちから信頼を寄せられている。しかし、娼婦のジョイスと出会い、サディスティックな快楽に溺れるうちに、これまで心の奥に封じ込めてきた激しい殺人の衝動が解き放たれてしまう。
監督がウィンターボトムであるだけに、ジム・トンプスンの世界をどう映像に翻訳してみせるのか期待していたのだが、この監督ならではのアプローチや映像世界を感じ取ることができなかった。これまでのなかでそういう作品は、『24アワー・パーティ・ピープル』だけだった。
かつてウィンターボトムはジョン・アーヴィングの『サイダーハウス・ルール』の映画化を進めながら、途中で自ら監督を降りたことがある。筆者が彼にインタビューしたとき、その事情をこのように説明していた。
「来年撮影に入るつもりでジョン(・アーヴィング)自身に脚本を書いてもらったんだが、原作を越えるものではなかった。原作が大好きなのでそれを越える脚本なら映画化したけど、納得がいかなかったので自分から断った。おかげで(配給の)ミラマックスに違約金を取られて頭にきているけど、イヤなものはイヤなんだ」
そんな姿勢はいまも変わっていないのか、それとも変わってしまったのか。ジョン・カランが手がけた『キラー・インサイド・ミー』の脚本には、映画から想像できるかぎりでは、原作を越えようとするような斬新なアプローチや野心のようなものは見られない。
小説を映画化するためには、どうしても切り捨てなければならない部分が出てくる。どこを捨てるかで映画の作り手の関心や方向性が明らかになる。原作を読んでいる人はわかるはずだが、この映画の場合、潔く切り捨てられた部分がない。ということは、展開や場面を少しずつ切り詰めていったダイジェストになっているということだ。原作を未読の人はそれなりに楽しめるかもしれないが、ウィンターボトムの作品のなかではかなりレベルが低いといえる。
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