但し、フィルム・ノワールの影響に言及する上で、筆者がまずファム・ファタルに注目したのは、ウーにもそれが当てはまると言いたいからだけではない。重要なのは、ファム・ファタルが単なるキャラクターにとどまらず、欲望やエロティシズムと死の結びつきを象徴し、映画の基調となっていることだ。イーナン監督がそれをよく理解していることは、映像表現が端的に物語っている。
この映画の導入部では、ジャンと妻が最後のセックスをして別れるドラマとバラバラ殺人が騒ぎを巻き起こしていくドラマが、並行して描かれる。しかもそんな構成のなかで、ジャンに抱かれる妻の手首と、ベルトコンベアで石炭とともに運ばれていく切断された手首の映像が交錯する。
さらに、ウーが刑事たちと向き合い、夫の訃報に接する場面も素晴らしい。彼女は手で顔を覆って泣き続けるため、私たちには顔が見えない。それはもちろん、ウーの顔がはっきり映し出される瞬間を際立たせる役割を果たす。しかしこの場面には、明らかに別の意図が込められている。最初に映し出されるのは、ウーのすらりと伸びた足で、映像が切り替わっても、彼女が顔を覆っているために足が目立ち、死に関わる場面でありながら、妙にエロティックに見えるのだ。
フィルム・ノワールの影響はそれだけではない。フィルム・ノワールが黄金時代を迎えた40〜50年代のアメリカ社会と、この映画が作られた現代の中国社会には興味深い接点がある。
第二次大戦で疲弊したヨーロッパに対して、戦場にならなかったアメリカは、世界をリードする大国の道を歩み出し、経済発展を遂げた。人々の生活は豊かになり、様々な欲望が芽生えるようになった。だがその一方では、冷戦や核兵器の脅威が広がり、人々は抑圧されてもいた。そして映画には厳しい検閲があった。そんな時代にフィルム・ノワールは、検閲をくぐり抜けるような間接的、象徴的な表現を駆使して、欲望と抑圧がせめぎ合う閉塞感を描き出した。
これに対して、改革開放政策によって方向転換した中国は、グローバリゼーションの波に乗って経済成長を続け、世界をリードする大国になった。人々の生活は豊かになり、様々な欲望が芽生えたが、政治体制は変わらず、貧富の格差が広がっている。そして映画には厳しい検閲がある。そんな中国社会を生きるイーナン監督が、フィルム・ノワールに刺激を受けるのは必然ともいえる。
『薄氷の殺人』には、イーナン監督の中国社会に対する洞察とフィルム・ノワールにインスパイアされたスタイルが見事に融合している。では、その洞察とはどのようなものなのか。彼のデビュー作『制服』(03)にそのヒントがある。『制服』では、母親が細々と営む仕立て屋で働く若者が、店に制服を預けた警官が事故に遭ったことを知り、その制服を着てみたことから人生が変わる。これまで誰にも相手にされなかった彼は、警官になりすまし、ビデオショップで働く娘とデートするようになる。だが、やがて彼女もまた別の顔を持っていることが明らかになる。変化する社会から取り残された彼らは、それぞれに別の顔を持つことで社会に追いつこうとする。
『薄氷の殺人』のジャンとウーは、お互いに自分を偽りながら触れ合う。なぜなら彼らはそれぞれに、致命的ともいえるつまずきを経験し、そんな過去から逃れようともがいているからだ。しかし、逃れようとするばかりで、その先になにを求めているのかは、もはや本人にもわからなくなっているように見える。イーナン監督はそんな感情を、フィルム・ノワールならではの象徴的な表現で炙り出していく。それは、先述した欲望やエロティシズムと死の結びつきだけではない。見逃せないのは、石炭と氷のコントラストだ。石炭は燃えることで熱を発し、たぎる欲望を連想させる。これに対して氷の冷たさは裏切りに繋がる。ジャンとウーは、どちらもふたつのものを内に秘め、それらが瞬時に切り換わるところに、とらえどころのない心の闇を見ることができる。 |