ディアオ・イーナン・インタビュー
Interview with Yinan Diao


2014年 月島
薄氷の殺人/白日焔火/Black Coal, Thin Ice――2014年/中国=香港/カラー/106分/アメリカン・ヴィスタ
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(初出:「CDジャーナル」2015年2月号、加筆)
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フィルム・ノワールで繋がる40〜50年代アメリカと現代中国
燃えて熱を出す石炭と冷たい氷に象徴される欲望と裏切り
――『薄氷の殺人』(2014)

 

 中国の新鋭ディアオ・イーナン監督にとって3作目の長編となる『薄氷の殺人』では、未解決の連続殺人事件をめぐって、警備員に身を落とした元刑事ジャンと、事件の被害者たちと親密な関係にあった謎の女ウーが絡み合い、深い闇に引き込まれていく。

 最初の事件が起こるのは1999年の夏で、各地に散らばる石炭工場から切り刻まれた男の死体の断片が相次いで発見される。それがプロローグとなり、2004年の冬に連続殺人に発展した事件が、ジャンとウーを宿命のように結びつけていく。

――『薄氷の殺人』では、独自の捜査に乗り出したジャンが、自転車に乗ったウーをスクーターで尾行し、雪の積もった暗い道を進む場面が印象に残ります。ウーが配達のために顧客の家に立ち寄ると、ジャンは距離を置いてスクーターを止め、彼女の様子をうかがいます。そして、配達を終えた彼女を追いかけようとしたジャンは、歩道の雪の上に真新しい足跡があることに気づきます。その足跡は、何者かが彼らを尾行し、姿を見られる前に引き返していったことを物語ります。この場面に台詞はほとんどなく、映像だけで不気味な気配が醸し出され、謎が生み出されます。

「私は昔のサイレント映画が大好きなんです。サイレントこそが映像の芸術であり、そこに映画の本質があると思います。だから脚本を書くときにはサイレント映画のように、できるだけ台詞を削ぎ落とし、シンプルにすることを心がけました。80年代の初頭、中国の改革開放の初期の頃に、アメリカ映画の回顧展が開かれました。そのときに『ワイルド・ブラック/少年の黒い馬』(キャロル・バラード監督)という映画を観たのですが、最初の30分間はほとんど台詞がないのに、私はすごく惹かれました。一緒に行った父親にどうして台詞がないのか尋ねたら、こういう映画こそ本当の映画なんだと言われました。それでこの映画を撮影するときも、役者さんたちにできるだけ台詞を削ぎ落としていってほしいと言いました。
 そして同様に重要なのが、ロケ地、場所、土地です。その舞台をどのように撮るかが非常に重要なので、ドラマの設定と同じ時間帯にその場所に行ってみて、そこを観察して脚本に修正を加えていくというようなことをしました。ある部分は先にロケ地を訪れ、その空間からインスピレーションを得ています。たとえば、トンネルを抜けると雪景色になって、ジャンがバイクを盗まれる場面です。真昼の花火があがるラストの住宅街は、まずその場所に行ってみて、脚本を変えていきました。また、ベルトコンベアで石炭が運ばれていく貯炭場は、メインのロケ地ではなく別の場所、車で丸一日かかるような町まで行って、撮影しました」


◆プロフィール◆
ディアオ・イーナン
1969年生まれ。北京にある中央戯劇学院で文学と脚本執筆の学位を取得し卒業。脚本を担当した作品は『スパイシー・ラブスープ』(98)、『こころの湯』(99)、『All the Way』(01)、『Eternal Moment』(11)など。また俳優として、ジャ・ジャンクー作品の多くを担当する撮影監督ユー・リクウァイの長編監督作品『All Tomorrow’s Parties』(2003年カンヌ国際映画祭“ある視点”部門出品)に出演している。
2003年、脚本も担当した『制服』(UNIFORM)で監督デビューを果たす。この作品は2003年バンクーバー国際映画祭にて最優秀作品賞を受賞した。2007年、監督2作目となる『夜行列車』 (NIGHT TRAIN)がカンヌ国際映画祭“ある視点”部門でプレミア上映され、そのミニマリズム的手法を絶賛され、ヨーロッパ中の映画祭で上映された。監督3作目となる本作で2014年ベルリン国際映画祭 金熊賞(作品賞)& 銀熊賞(主演男優賞)の2冠に輝く。
(『薄氷の殺人』プレスより引用)
 

 


――プレスに収録されたインタビューであなたは、『マルタの鷹』(41)や『黒い罠』(58)といったフィルム・ノワールを参照したと語っています。フィルム・ノワールが黄金時代を迎えた40〜50年代のアメリカ社会と、この映画が作られた現代の中国社会には興味深い接点があるように思います。
 第二次大戦で疲弊したヨーロッパに対して、戦場にならなかったアメリカは、世界をリードする大国の道を歩み出し、経済発展を遂げました。人々の生活は豊かになり、様々な欲望が芽生えるようになりました。しかしその一方では、冷戦や核兵器の脅威が広がり、人々は抑圧されてもいました。そして映画には厳しい検閲がありました。そんな時代にフィルム・ノワールは、検閲をくぐり抜けるような間接的、象徴的な表現を駆使して、欲望と抑圧がせめぎ合う閉塞感を描き出しました。
 これに対して、改革開放政策によって方向転換した中国は、グローバリゼーションの波に乗って経済成長を続け、世界をリードする大国になりました。人々の生活は豊かになり、様々な欲望が芽生えましたが、政治体制は変わらず、貧富の格差が広がっています。そして映画には厳しい検閲があります。あなたは、そこに繋がりを感じますか。

「いまおっしゃったことを私の方が答えようかと思っていました。まったく同感です。私の代わりに説明していただきました(笑)。脚本の第一稿を書いたときには、その内容が芸術性に片寄り、また非常にパーソナルなものになっていました。だからなかなかお金が集まりませんでした。自分の好きなものではあっても、それを受け入れてくれるマーケットがないので撮れないのかと、辛い思いをしていました。
 ちょうどその頃に、フィルム・ノワールの概念に思い至ったわけです。そのもとになる探偵小説の優れた作品には、決して純文学に劣らないものが厳然としてありました。そこで私は、自分が撮りたいものを撮って、かつ観客にも受け入れられるような、双方のバランスをとることが可能なのではないかと思うようになったわけです。40年代、50年代に素晴らしいフィルム・ノワールやハードボイルドの数々を残してくれた先達たちに感謝したいと思います。いまおっしゃったように、中国の現在の社会状況がそれと同じなわけで、別に無理をしなくても自然にハードボイルドのように撮れるということです」===>2ページに続く

 
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