マイケル・ナイマン・インタビュー01

1990年9月 電話(ロンドン―東京)
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――グリーナウェイ以外の映画で、最近音楽を手がけたものがあったら教えてください。

MN フランスの監督パトリス・ルコントの「仕立て屋の恋」(89)があります。今年公開されてフランスとアメリカでは評判になりました。 それに「髪結いの亭主」(90)という同監督の映画の音楽も担当しました。あと一ヶ月くらいで公開になります。これはエレガントでロマンティックな音楽です。映画はとても激しいラブ・ストーリーです。 わたしは、たくさんの映画音楽の依頼を断ってきました。わたしが興味をおぼえるのは、とても個性的な、常識では考えられないような映画なのです。

――あなたの音楽が目指しているのは、たとえばクラシックとロックといったジャンルの境界を打ち破ることのように思えるのですが。

MN わたしの存在はそういうものです。マーケットのなかで、どのジャンルの音楽に属するのかはっきりしませんからね。わたしは、そのようにカテゴライズしようとする人を困らせるのが好きだし、その方が、 新しい可能性があると思います。わたしが目指しているのは、マーケットの期待に反駁することです。ジャンル分けを拒むことによってマイケル・ナイマンの存在が大きくなっていくのではないかと思います。

――そうした作業は、突き詰めると階級の意識とか境界を乗り越える試みともいえると思うのですが。

MN わたしは、コンサートに対して相反するふたつの姿勢を持っています。それが、社会的な障壁によるものだともいえます。わたしが普段、マイケル・ナイマン・バンドで行うコンサートは、昨年、東京のクアトロで行ったもののように、ロック寄りのものです。 一方では、こうしたコンサートにとても満足しています。というのも普段、わたしの音楽のようにクラシック音楽の立場にとてもしっかりとした基礎をおいた音楽を聴くことがない人たちに接することができるからです。

わたしは王室の人々が来るような典型的なクラシックのコンサートに行くと、ちょっと自分が葬式に参列しているような気分になります。音楽の表現に新鮮味がなく、ひどく形式張っているということなのですが、もう一方で、クラシック寄りの自分がいて、 自分の音楽がそういった伝統的なコンサートの場で演奏されることを望んでいるのです。なぜならわたしの音楽とは、そういうものであり、それに相応しい特徴を備え、そして、それを望む聴衆もいるからです。そうすれば、伝統的なコンサートの場は、 わたしの音楽と音楽の社会的な位置によって変わっていくことでしょう。


 


――イギリスの社会的な階級が障害になることはありますか。

MN 社会階級というよりも、音楽的な社会階級なのです。公に認められている音楽とわたしのような音楽とのあいだにはとても厚い壁が立ちはだかっています。しかもわたしは、その障壁の存在をいっそう際立たせる立場にあります。なぜなら、 公認された音楽に携わる人々は、わたしの音楽が教養豊かな音楽であり、わたしがクラシックを学び、またこの40年間に現代音楽の世界で起こったことを把握しているのを知っています。そのために彼らは、わたしの音楽を危険で忌々しいものだと思うのです。

わたしはこんなことまで言われます。マイケル・ナイマンがクラシックも、シュールレアリスムも、音楽的な構造も、何でも理解しているなら、どうやって洗練されていない人々に訴えるような音楽を書くことができるのか。しかし、わたしのファンは、 クラシックを聴く人々よりももっと洗練された人々なのです。たとえば芸術家であり、建築家であり、ジャーナリスト、グラフィック・デザイナー、映画作家であり、そういった人々は、偏狭な音楽ファンよりもはるかに洗練されているのです。偏狭な音楽ファンというのは、 音楽の催しには足を運んでも、他の様々な事柄にはまったく無知で、展覧会とか映画には無縁で、ピーター・グリーナウェイやデイヴィッド・リンチの映画を知らないのです。というように、巨大な社会的ギャップがあるのです。

もし仮に、東京の一流のホールでオーケストラによるわたしの音楽の連続公演をやりたいという話があったら、わたしは条件付きで、ええ、喜んでと答えるでしょう。なぜなら、わたしはロックンロールや何かの音楽の作曲家ではなく、 オーケストラの作曲家と比較されることを本当に望んでいるのです。わたしは、自分自身の音楽シーンを作ることを望んでいるにもかかわらず、伝統的なシーンにも顔を出したいと思っているのですが、しかし、これまで実際に顔を出すたびに、演奏にとても不満が残ったり、 頭の堅い観客ばかりだったりしてきたのです。しかしこれは、自分のやり方で立ち向かって解決しなければならない難題なのです。

――あなたの新作『La Traversee de Paris』がとても気に入っているのですが、これは何の音楽なのでしょう。

MN それは、まるで映画の世界に出たり入ったりするような展覧会のための音楽だったのです。人々はヘッドフォンをつけていろいろな部屋を歩き回り、各部屋にはそれぞれ違う音楽が用意されています。音楽の展覧会のようなものです。とても興味深い試みでした。 音楽も素晴らしく、一部はパリの主催者側の意向に従って作った音楽ですが、ほとんどはピーターの映画と同じように、視覚的なシチュエーションでわたしの創作を活性化させたものです。

この企画では、製作者側がアイデアを出す場合と、わたしがアイデアを出す場合の二通りのプロセスがあって、それからわたしがそれをまとめあげて、彼らの作品の一部になったのです。わたしは、このような作業の方法が気に入っているし、とても刺激的でした。 これはわたしが、制約を意識しながら創作をした初めての経験です。ダンスのプロジェクトはいくつかやったことがあるのですが、展覧会は初めてでした。こうした企画には、実験的な可能性が十分にあると思います。いろいろ学ぶことができたので、今度また、 別のアーティスト仲間や別の場所でこうした企画をやったら、また違った新しいことができると思います。97年に日本で万博が開かれたら、わたしは喜んでそれを実行しますよ。

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