マイケル・ナイマン・インタビュー01

1990年9月 電話(ロンドン―東京)
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(初出:「NEW FLIX」)
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実験的な試みと伝統へのこだわり

――グリーナウェイ監督とのコラボレーションでは、お互いの作業の段取りがある程度決まっているのでしょうか。

マイケル・ナイマン(以下MN) それはピーターの考えにもよるのですが、わたしは撮影に入ったり台本を読んだりする前に、あらかじめイメージを煮詰めたり、 音楽的な立場を決めている場合もあります。「英国式庭園殺人事件」ではフィルムを見る前に作曲しました。「ZOO」の時も音楽の構造は映像を見る前に考えました。だから理論的なコンセプトや音楽のスタイルや構造というものは、 より自由に決められるわけです。「プロスペローの本」では、全体の音楽の半分が出来上がっていて、残りは映画が出来てからピーターと会って完成させるつもりです。

――作品によって変わるわけですね。

MN 台本を見ることができる時には、それを参考に考えますし、そうでないときは、ピーターが作品の背景などを説明してくれます。わたしは映画の構造的な視野に立ったコンセプトを把握してから音楽を考え始めます。 そこで、各作品では音楽にそれぞれの特徴があります。「英国式庭園殺人事件」では、時代背景を考慮して17世紀の音楽を下敷きにしました。「プロスペローの本」は、90年代版の「テンペスト」ともいうべき作品ですが、 シェイクスピアの時代の音楽はあえて使わず、最初から現代的な音作りをしています。グリーナウェイとナイマンが「テンペスト」を手がけるというと、人々は当時のマテリアルを意識したものになると思うでしょうが、そういう期待を裏切って、 まったく90年代の音にしています。わたしは16〜17世紀の音楽が好きで、よくその構造を使ったりはしますが、一般的な意味での歴史的な音楽には興味がなく、わたし自身の音楽史が作りたいからなのです。

――あなたは「数に溺れて」のサントラの解説で、あなたの“Death Music”の系譜について語っていますが、死に対する深い関心は何に起因しているのでしょうか。

MN ピーターの映画には必ず死が描かれています。だから彼と仕事をするときは、“Death Music”が避けがたいものになります。わたし自身のプロジェクトとしても、<I'll State My Cremona to a Jew's Trump>があり、 また60分の長さの<Memorial>はヘイセル・スタジアムで死亡したイタリア人のサッカーのサポーターたちに捧げたものです。わたしの死に対する関心は、一般の人々とそれほど大きな違いがあるわけではありません。つまり、死についていつも考えているのは、 それが避けられないものであるからであって、病的な関心を持っているからではありません。わたしは確かに死に対してある種の哲学的な不安を感じてはいますが、わたしの音楽的な志向には明らかにある種の精神分裂症的な傾向があり、それは、誰かが注目すべきことだと思います。

 
 


つまり、一方ではわたしは活気にあふれ、陽気で外向的な音楽を書きますが、もう一方ではその対極にあるものが、音楽的な表現としてとても自分に合っていて、十分な手ごたえを感じることができるのです。それが、結果的に“Death Music”になっているのです。 わたしが話しているのは、いわば音楽言語の両極ともいうべきもので、それがとてもわたしに合っているということです。それからわたしは、死を扱ったドイツの楽曲をもとにたくさんの曲を書いてもいるので、それがわたしの音楽性に影響を与えているのかもしれませんが…。 また、わたしは、他の作曲家が書いたレクイエムを聴くのが好きで、そうした音楽は、レクイエムの荘厳さへの憧れを満たしてくれます。

――グリーナウェイ監督の映画では、人間が生きていくうえで立脚し、依存している歴史、制度、文化、教養といった要素が、悪意の込められた挑発的な映像によって揺さぶられ、最後に絶対的な死が残ると思うのですが、あなたの場合はいかがですか。

MN 自分の目から見て、ピーターは間違いなく死に対して抱いていると思えるほど大きな問題を自分が抱いているとは思っていません。ピーターの死に対するオブセッションは、明らかにとても個人的なもので、彼の心理面と関係していると思います。 彼とはこのことについてまったく話し合ったことがないので、わからないのですが、わたしは死を芸術的な表現の形態として自分自身と切り離すことができます。というのも、わたしが死にまつわる曲を作るときには、どんな死をもとにしても曲は書け、 映画のなかで死ぬ人物をわたしの曲に押し込む必要がないからです。だから、わたしの“Death Music”はピーターの映画の実際的な表現よりも抽象的なものなのです。

――グリーナウェイの映画とあなたの音楽には、死とともに宗教的な要素があると思うのですが、いかがですか。

MN グリーナウェイの映画は、とても具体的で、逆説的になりますが、それゆえに観る人によって個々違った解釈が出てくると思います。わたし自身は教会とは関係ありませんし、宗教的な信念をもっていません。神を信じても、また信じようともしていません。 わたしは、自分の音楽を宗教的なものにしようとは思っていませんし、わたしの宗教的な音楽でも、それは教会音楽の構造を使ったりしているというだけなのです。「コック〜」では、詩篇の<Out of the Ruins>が使われていて、宗教的な作品に見えますが、 わたしはその内容を信じているわけではありません。そして、この曲には、アルメニアの大地震の被災者に対するシンパシーが込められています。

――グリーナウェイの作品は、実験的な要素から次第に物語性に比重が置かれるようになり、あなたの音楽も、たとえば「ZOO」では、コマ落としでエンゼルフィッシュが腐敗していく映像のバックに流れる眩惑的な音楽が印象に残るのに対して、 最近の作品ではクライマックスへとドラマが盛り上がっていく部分での音楽が際立っているように思えるのですが、そうした実験的な要素から物語性への変化を意識したりしていますか。

MN それは面白いですね。というのも、彼がナラティブな映画を作り出す以前にはもっとはるかに実験的な映画を作っていたわけです。ということは、音楽とイメージのコンビネーションはもっと抽象的で、ひとつのシーンももっと抽象的で、わたしは音楽はそうあるべきだと考えます。

しかしまた音楽には、発展し、変化し、前進するという意味でナラティブな要素があり、音楽的に異なる状態があるのです。「コック〜」の<Memorial>の場合には、五つか六つの段階があって、この曲が、ナラティブなものとしてある種の発展をしているのです。しかしナラティブとはいっても、 挿話風のものではなく、あくまで抽象的なものです。だからエンゼルフィッシュの腐敗の場面は、「コック〜」のラストに比べると、音楽のナラティブな発展ということに関していえば、正反対にあるといえるでしょう。

わたしは、「コック〜」のラストの音楽の効果は本当に素晴らしいと思いますし、うまくいったのは、ピーターが音楽に合わせてあのシーンを演出したからだと思います。この場合、撮影以前に音楽があり、彼はまるでオペラを演出するように、この音楽をセットに流しながらあのシーンを撮影していたのです。 ===>2ページへ続く

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