マイケル・ナイマン 01
Michael Nyman


 
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(初出:マイケル・ナイマン・バンド、コンサート・プログラム)

エキセントリックな躍動感と静謐なリリシズム
ナイマンの音楽的な本能は両極へと向かう

 マイケル・ナイマンの最近の活動は、驚くほど多岐にわたり、各方面から注目を浴びる存在になっている。そんな彼の音楽の魅力を語るうえで無視することができないのは、やはり映画監督ピーター・グリーナウェイとのコラボレーションだろう。ナイマンが、日本で広く注目されるようになったのも、グリーナウェイの作品が次々と公開され、話題を集めるようになってからのことだ。

 ピーター・グリーナウェイは、実験映画のフィールドから、その精神を引きずったまま商業映画へと進出し、既成の映画にない衝撃的な映像世界を切り開き、イギリス映画界で異彩を放っている監督だ。そして、グリーナウェイの実験映画時代から、彼の映画の音楽を手がけてきたのが、マイケル・ナイマンということになるが、いま書いたグリーナウェイとまったく同じことがナイマンにもいえる。

 つまり、それまで現代音楽や前衛的な音楽のファンだけに知られる存在だった彼もまた、ジャンルでくくることのできないユニークな感性をそのまま商業映画の音楽に持ち込み、異彩を放っているということだ。

 ところで、映画音楽というと、一般的には、音楽はあくまで映画や映像に付随するものと考えられがちだが、ナイマンとグリーナウェイの関係は、一般的な映画監督と音楽家のそれとは明らかに違う。たとえば、一般的な関係であれば、出来上がった映像に、音楽家が、それぞれシーンにふさわしい音楽をつけていく。

 ところが、彼らの場合には、ナイマンが、映画が撮影に入ったり台本を読んだりする前に、あらかじめ音楽のイメージができていたり、あるいは、『英国式庭園殺人事件』を例にとれば、時代背景が17世紀ということをヒントに、独自の発想から作曲家パーセルの作品を下敷きに自分の音楽を作り上げてしまう。


 

 また、極端な場合には、『コックと泥棒、その妻と愛人』のように、ナイマンが、この映画とは関係なく以前に書いていた曲の一部をベースにして、逆に、グリーナウェイが映像を組み立てるといったこともあるのだ。ナイマンは、グリーナウェイの映画に関して、「私の音楽は、サントラであると同時に、映画から完全に独立したマイケル・ナイマンの音楽でもあるのです」と語っているが、それも頷けることだろう。

 マイケル・ナイマンの音楽は、ジャンルといったものではまったく分類が不可能な音楽である。ナイマンは、そのプロフィールをご覧になればおわかりのように、特にバロックを中心にクラシックに関する豊富な知識を持ち合わせている。一方では、『現代音楽、ケージとその後』といった著作も発表しているように、現代音楽の動向にも精通している。

 また、彼の音楽は、ミニマル・ミュージックというジャンルにも属するが、その代表的な作曲家であるスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスなどと比較してみると、クラシックの影響が大きく、明らかに異質である。たとえば、彼は、パーセル、モーツァルトやウェーベルンといった作曲家の楽曲に着目し、楽曲の構造を借用したり、解体して断片をコラージュして、自分の世界を作り上げてしまうのだ。

 ところが、そんな作品が、彼が率いるマイケル・ナイマン・バンドの演奏で再現されると、リズムにポップな躍動感が加わり、場合によっては、前衛的なジャズのようにも聞こえ。このような音楽をジャンルでくくろうとするのは、無謀というものだろう。

 そして、もうひとつ、彼の音楽で注目しておきたいのは、徹底的に両極へと向かうユニークな感性だ。彼の音楽は、曲のトーン音の強弱、リズム、メロディなど、あらゆる点で両極に向かう傾向があり、それが独特の世界を作り上げている。具体的に作品をあげるなら、作品のなかのすべての曲が当てはまるというわけではないが、たとえば、バロック趣味が濃厚な『ZOO』には、エキセントリックとかヒステリックと言ってもいいような魅力が鮮明になっているし、逆に、モーツァルトの楽曲を参照している『数に溺れて』などでは、レクイエムを思わせる静的な魅力が際立っている。

 こうした音楽性が、どこから生まれてきたのかということについては非常に興味をそそられるが、以前、ナイマンにインタビューしたとき、このことについて彼は、次のように語っていた。===>2ページにつづく

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